2016年03月24日

「共感出来るように書け」は誤った指導である

共感の話、続けます。

「読者が共感出来るものを」、
「テレビの前の人は共感出来るかなあ」、
「観客が共感するかどうか」、
など、
「共感」を目的に指導する奴は、信用するな。
その指示や指導は、誤りである。


前回までのあらすじ:

共感は、自分と近いものにしか起こらない。
自分と遠いものには起こらない。

感情移入は、自分と遠いもの「にも」起こる。
自分と遠いのに、自分と近いものに感じる。

(そのコツは、
設定やビジュアルや性格や立場など、ガワが全然違うのに、
本質的な何かが、自分と近いのだと発見させることである。
感情移入は、何らかの変化に対して起こり、
変化しない点の状態には起こらない)



さて、
「共感が結果になるようにせよ」と言われた、としよう。

そう聞いたあなたは、
「自分が共感出来るもの」しか信用できないから、
「自分の信じる、別の共感」を書く。
で、まだ共感出来ない、と言われた。
そうすると、
自分の感度を下げてまで、
「一般的な共感」にぬるくチューニングして改訂することになる。
相手の共感と自分の共感が元々違うものなのに、
妥協的共通点を探さざるを得ないからだ。

これを出されたら、
「うん、まあ、前の共感出来ないものよりは、
ましになったね
(ぬるいけど、この辺がこの作家の限界なのだろう。
やっぱニッチな事やる奴はダメだなあ。
誰もが共感するスターは生まれないのかなあ)」
と、相手は返すだろう。
()内が本音で、あなたには二度と仕事が頼まれる事はない。


正しい編集者やプロデューサーならば、
「前よりは一般的な共感に妥協してもらったのはいいのですが、
詰まらなくなったと思います。妥協しないでください」と、
真摯に感想を言ってくれるだろう。

けれど、「共感」を中心ワードにしている限り、
迷路からは抜け出せなくなるぞ。


共感が目的だとしてしまうと、
みんなの共感=最大公約数の知ってること=あるある、
にしかならない。
それは使い古されたものしかないだろう。

自分の共感を信じているときに、
それはみんなの共感じゃないと言われたら、
自分はメジャーな感性がないのだ、と自信を失ってしまい、
妥協にしか生きる道がなくなってしまう。

それは、才能の寿命を縮ませ、先細らせるだけだ。
何故なら、人は誰もが異なるからだ。
わたしの共感とあなたの共感が合致するのは、
偶然である。

偶然、メジャーな共感を体験していた、に過ぎない。
それはボリューム集団に属する、
平凡な奴のすることで、
非凡な作家がやるべきことではない。

(勿論市井の人々の気持ちは知るべきだし、
人間として体験すべきことは十二分にするべきだ)


平凡な共感では、非凡な作品を作れない。
平凡な作品になるだろう。



これは、共感をゴールにするからだ。
感情移入をゴールにすればいいのだ。


誰もが共感出来ないことだとしても、
誰もが感情移入することは可能である。
(原理的に、であり、全てかどうかは不明)

深い感情移入と深い共感は、
結果だけでは区別がつかない。
どちらも、わかるわーあれは俺だーと思うことであるからだ。

つまり、
「全員が共感出来るあるあるを探してこい」ではなく、
「全員と全く遠いのだが、何故か感情移入が止まらないものを、書け」が、
正しい指導だ。

前者の指導では、
最大公約数探しになり、ぬるくなる。尖ったものが緩くなる。
後者の指導では、
難易度が上がるが深く共鳴させるものが出来るかも知れない。
というか、名作は、こういう追い詰め方でしか出来ない。



あなたの担当が「ちょっと共感出来ないなあ」と言い出したら、
「感情移入がうまくいっていない」と読み替えなさい。

共通のぬるくなるものを探すより、
誰からも遠いことを、
誰もが感情移入出来るように、もっと頑張りなさい。

分かりやすくしたり、
誤解を取り除いたり、
説明不足や説明過多を直したり、
骨格だけをもっと見えるようにしたり、
構成を工夫したり、
想像の枝葉が繁る間を用意したりするだけで、
ぬるい共感にすげ替えるよりも、
効果的であることのほうが多いよ。


共感をゴールにするな。
感情移入をゴールにせよ。

あなたの作品は、
共感出来ないのではなく、
感情移入出来ないのである。




多くの人は、両者の違いをここまで精密に考えていないため、
混同していたり、自分の解釈で語ったり、
片方しか言葉を知らなかったりする。

勿論、
ここで語っている感情移入と共感の違いは、
僕の考え方であり、
一般には共感されない可能性がある。


おあとがよろしいようで。
posted by おおおかとしひこ at 00:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。

ここ数日、役者の主観と客観について再度考えていました。
他の演劇関係者の考えを知りたいと思い、ネットで検索しましたが、なかなか核心に触れる書き込みに出会えず…
そんな時に先生のBlogに遭遇しました。

私には非常にわかりやすく腑に落ちました。

私は演出家ですが、脚本も書き、役者もしています。
上記3つの仕事の中で、脚本の苦手意識が強かったのですが、Blogを拝読し共感を覚えると共に、自分自身の苦手意識がスーッと消えていくのを感じました。

実際に書きだせば、また苦しみの連続かもしれませんが

共感をゴールにするな。
感情移入をゴールにせよ。

を、肝に銘じて、そして、今のこの感覚を忘れずに挑んでいきたいと思います。

ありがとうございました。
Posted by 青木由里 at 2016年03月25日 02:24
青木由里さま、コメントありがとうございます。

映画の脚本と芝居の脚本は違うけど、
同じ部分もあると思います。
何かのお役に立てれば幸いです。

共感しあってる集団は、閉鎖的で気持ち悪いです。
表現は、外にひらかれないとね。
Posted by 大岡俊彦 at 2016年03月25日 12:45
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