2016年03月28日

最後まで書かないと、全体は見えてこない

僕は口を酸っぱくして、
全体が見えてから部分を書き始めよ、
なんて言ってるけど、
一方では、やっぱり最後まで書き終えないと、
本当に自分がやろうとしていたことなんて、
本当には見えてこないものだったりする。

つまり勝負は、
一度書き終えたあと、
どうリライトするかにかかっているのだ。



ラスト付近に至って、
ようやくテーマが見えてくることもある。
ラストシーンで、意味が確定することもある。

だとしたら、
最初にそれを前振っていたほうが効果的だとか、
途中のあの展開も、ああしたほうが無駄がないなどと、
書き終えてから思うのだ。


そういう書き直しは、リライトと言うよりも、
「整える」感覚かも知れない。
服を着て、袖がひきつれているからちゃんとする、
みたいな感覚か。
デッサンが狂ってたのを引いた目で見て、
ようやく部分だけあってても全体がよくないと気づいた、
みたいな感覚か。


そういう直しは、なるべく原稿を見ずに、
頭の中の構造イメージでやった方がいい。
「理想は、こういう構造であるべきだった」と、
理想をまず作る。

つまり、ようやく全体がハッキリ見えるのは、
この時なのである。

あとは、具体的な文章を、理想に従うように直していく。
バッサリ切るのが勿体なくて、
現場の文章を一部融合させようとする自分を、
理想主義で更正させてゆくことだ。
それを説得しきれるぐらい、
理想をきちんと作っておくべきだ。

その理想型が細かいレベルで見えるのは、
結局一度書き終えたときなのだ。

つまり、脚本は二度書く。


多くの初心者は、
一回最後まで書いたら完成だと思っている。
マラソンみたいに、みっともなくてもゴールさえすれば、
終了だと。

二周目があることを、ここに断言しておこう。
一周目でようやく全体像が見えたので、
それに従って、理想のプレイをする感じである。

理想型に近づけるのだから、
この話の理想はどうあるべきかが分かってないと出来ない。



僕は、とにかく最後まで書けと言う。
最後まで書く感覚を身につけろと言う。
それは、一周出来ない奴は二周出来ないからだ。
一周の感覚を持ってないと、二周目の理想も見えてこないからだ。

で、何周すれば完成か?
人によるし作品にもよる。
数周、とだけ言っておく。

ちなみに完成だ、というのが、
ようやく公式の第一稿である。

プロの世界では、ここで初めて他人に見せて、
理想型を修正して、何稿も直していく。
「いけちゃんとぼく」では20稿ぐらい書いて、
一部が壊滅してしまったのは反省点だ。

つまり、何周するのか分からない。
100周ぐらい?
飽きちゃうよね。
飽きるほど詰まらない話は、そうなるけど、
面白い話は飽きないと思うよ。

途中で飽きる話は、やっぱりその程度の価値の話なのだよ。
posted by おおおかとしひこ at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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