僕は口を酸っぱくして、
全体が見えてから部分を書き始めよ、
なんて言ってるけど、
一方では、やっぱり最後まで書き終えないと、
本当に自分がやろうとしていたことなんて、
本当には見えてこないものだったりする。
つまり勝負は、
一度書き終えたあと、
どうリライトするかにかかっているのだ。
ラスト付近に至って、
ようやくテーマが見えてくることもある。
ラストシーンで、意味が確定することもある。
だとしたら、
最初にそれを前振っていたほうが効果的だとか、
途中のあの展開も、ああしたほうが無駄がないなどと、
書き終えてから思うのだ。
そういう書き直しは、リライトと言うよりも、
「整える」感覚かも知れない。
服を着て、袖がひきつれているからちゃんとする、
みたいな感覚か。
デッサンが狂ってたのを引いた目で見て、
ようやく部分だけあってても全体がよくないと気づいた、
みたいな感覚か。
そういう直しは、なるべく原稿を見ずに、
頭の中の構造イメージでやった方がいい。
「理想は、こういう構造であるべきだった」と、
理想をまず作る。
つまり、ようやく全体がハッキリ見えるのは、
この時なのである。
あとは、具体的な文章を、理想に従うように直していく。
バッサリ切るのが勿体なくて、
現場の文章を一部融合させようとする自分を、
理想主義で更正させてゆくことだ。
それを説得しきれるぐらい、
理想をきちんと作っておくべきだ。
その理想型が細かいレベルで見えるのは、
結局一度書き終えたときなのだ。
つまり、脚本は二度書く。
多くの初心者は、
一回最後まで書いたら完成だと思っている。
マラソンみたいに、みっともなくてもゴールさえすれば、
終了だと。
二周目があることを、ここに断言しておこう。
一周目でようやく全体像が見えたので、
それに従って、理想のプレイをする感じである。
理想型に近づけるのだから、
この話の理想はどうあるべきかが分かってないと出来ない。
僕は、とにかく最後まで書けと言う。
最後まで書く感覚を身につけろと言う。
それは、一周出来ない奴は二周出来ないからだ。
一周の感覚を持ってないと、二周目の理想も見えてこないからだ。
で、何周すれば完成か?
人によるし作品にもよる。
数周、とだけ言っておく。
ちなみに完成だ、というのが、
ようやく公式の第一稿である。
プロの世界では、ここで初めて他人に見せて、
理想型を修正して、何稿も直していく。
「いけちゃんとぼく」では20稿ぐらい書いて、
一部が壊滅してしまったのは反省点だ。
つまり、何周するのか分からない。
100周ぐらい?
飽きちゃうよね。
飽きるほど詰まらない話は、そうなるけど、
面白い話は飽きないと思うよ。
途中で飽きる話は、やっぱりその程度の価値の話なのだよ。
2016年03月28日
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