2016年03月29日

もの作りはサービス業か

多分、ここのところが根本的に間違っているから、
昨今の映像作りはダメになったような気がするのだ。

もの作りはサービス業ではない。
サービスで作られた映像など、なんの価値もない。


サービスというのは、
僕は極意を知っているわけではないが、
お客様を喜ばせることが至上だろう。
つまり、答えはお客様の中にあり、
それを探らなくてはならない。
で、そこまでオーダーメイド出来ない場合もあるから、
テンプレのいくつかで対応するというものだ。

「お客様対応」という言葉が示している。
サービスとは対応だ。
お客様は不変で、こちらが変わらなくてはならない。


物語というもの作りは、逆だと思う。
不変なる物語で、人を変えてしまうものだ。
感動したり笑う、一時しのぎではなく、
影響を受けたり考えを変えたり、一生心に秘めて勇気をもらったりする。
人を変えるその不変を作るには、
どうすればいいかという議論や試行錯誤が、
もの作りというものだ。


視聴率至上主義、売上第一主義は、
もの作りをサービス業に本質を変えてしまった。
だって人はサービスされると気持ちいいからだ。
ところが、同じ人はいないから、
人によってサービスを変えなければならず、
それはすなわちマーケティングでクラスタ分けをして、
ボリュームゾーンに絞ったり、
ニッチな狙いをしたりという、
「ターゲッティング」をしなければならなくなる。
こうして、マスのコミュニケーション自体が自壊して行く。

ひとつの不変なるものを作って、人々を変えていこう、
という意識はなくなった。

かつてはあっただろう。
高度成長期の日本は、もの作りの国だったはずだ。

いつからか、
「それは売れるのか」「それは売れ線ではない」
「売りがないから、売ることが出来ない」
「○○向けを、分かっていない」なんてことが、
もの作りに幅を利かせるようになった。

相手によって、こちらを変えることを要求される。
キャストは人気芸能人、
それによって話の骨格を変える、
人気原作で釣り、オリジナルの話のリスクに乗らない。

映画が投資になって(つまり製作委員会方式)、
そういうことになったのか?

投資は、当たりそうなものに金を出すギャンブルだ。
つまり、市場に合わせて己を変えるサービス業だ。

もの作りに投資するというのは、
設計図を読み、これは価値があり、今すぐは理解されないかも知れないが、
これが目の前に現れたら世界を変えるだろう、
と思って製作資金を融通することだ。


そもそも、脚本家はシャイでプレゼン下手だから、
そういう風に自信を持って企画書を書けない。
だから、サービス業のように、何でも相手に合わせてやりますよ、
というやり方に投資家を奪われる。

求められるべき人材は、
世界を変えるほどのもの作りを出来る人と、
その価値を分かり投資する人である。


それがない限り、
映画もドラマもCMもWebムービーも、
商業で作られる映像は、
サービス業化してしまうのではないだろうか?

媚びを売るのはまっぴらだ、
と芸術家気取りは言う。
それは気取っているのではない。
サービス業となって、相手に応じて自分を変えることで、
不変の価値を持つ作品性が損なわれることに、
もの作り側から抵抗しているのである。

サービスは人の深い思考を奪うのではないか?
する側もされる側も。
だから、浅い商売ばかりなのではないか?


今、本当にもの作りをするならば、
サービス業でないところでやるしかないのか?
自主制作とかで?
答えは分からないが、
業界が生きにくくなっているのは確かだ。

俺たちはコンビニの店員じゃない。
それ以前に、芸術家である。
芸術家とは高尚なものでもなんでもなく、
ひとつのもの作りで、人々を変えていくことだ。
その影響は、その場で終わらず、後世にもある。
ものが存在する限り与える。
人の世が変わっても、作者が死んでも、ものが存在する限り与える。
それがもの作りである。
posted by おおおかとしひこ at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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