多分、ここのところが根本的に間違っているから、
昨今の映像作りはダメになったような気がするのだ。
もの作りはサービス業ではない。
サービスで作られた映像など、なんの価値もない。
サービスというのは、
僕は極意を知っているわけではないが、
お客様を喜ばせることが至上だろう。
つまり、答えはお客様の中にあり、
それを探らなくてはならない。
で、そこまでオーダーメイド出来ない場合もあるから、
テンプレのいくつかで対応するというものだ。
「お客様対応」という言葉が示している。
サービスとは対応だ。
お客様は不変で、こちらが変わらなくてはならない。
物語というもの作りは、逆だと思う。
不変なる物語で、人を変えてしまうものだ。
感動したり笑う、一時しのぎではなく、
影響を受けたり考えを変えたり、一生心に秘めて勇気をもらったりする。
人を変えるその不変を作るには、
どうすればいいかという議論や試行錯誤が、
もの作りというものだ。
視聴率至上主義、売上第一主義は、
もの作りをサービス業に本質を変えてしまった。
だって人はサービスされると気持ちいいからだ。
ところが、同じ人はいないから、
人によってサービスを変えなければならず、
それはすなわちマーケティングでクラスタ分けをして、
ボリュームゾーンに絞ったり、
ニッチな狙いをしたりという、
「ターゲッティング」をしなければならなくなる。
こうして、マスのコミュニケーション自体が自壊して行く。
ひとつの不変なるものを作って、人々を変えていこう、
という意識はなくなった。
かつてはあっただろう。
高度成長期の日本は、もの作りの国だったはずだ。
いつからか、
「それは売れるのか」「それは売れ線ではない」
「売りがないから、売ることが出来ない」
「○○向けを、分かっていない」なんてことが、
もの作りに幅を利かせるようになった。
相手によって、こちらを変えることを要求される。
キャストは人気芸能人、
それによって話の骨格を変える、
人気原作で釣り、オリジナルの話のリスクに乗らない。
映画が投資になって(つまり製作委員会方式)、
そういうことになったのか?
投資は、当たりそうなものに金を出すギャンブルだ。
つまり、市場に合わせて己を変えるサービス業だ。
もの作りに投資するというのは、
設計図を読み、これは価値があり、今すぐは理解されないかも知れないが、
これが目の前に現れたら世界を変えるだろう、
と思って製作資金を融通することだ。
そもそも、脚本家はシャイでプレゼン下手だから、
そういう風に自信を持って企画書を書けない。
だから、サービス業のように、何でも相手に合わせてやりますよ、
というやり方に投資家を奪われる。
求められるべき人材は、
世界を変えるほどのもの作りを出来る人と、
その価値を分かり投資する人である。
それがない限り、
映画もドラマもCMもWebムービーも、
商業で作られる映像は、
サービス業化してしまうのではないだろうか?
媚びを売るのはまっぴらだ、
と芸術家気取りは言う。
それは気取っているのではない。
サービス業となって、相手に応じて自分を変えることで、
不変の価値を持つ作品性が損なわれることに、
もの作り側から抵抗しているのである。
サービスは人の深い思考を奪うのではないか?
する側もされる側も。
だから、浅い商売ばかりなのではないか?
今、本当にもの作りをするならば、
サービス業でないところでやるしかないのか?
自主制作とかで?
答えは分からないが、
業界が生きにくくなっているのは確かだ。
俺たちはコンビニの店員じゃない。
それ以前に、芸術家である。
芸術家とは高尚なものでもなんでもなく、
ひとつのもの作りで、人々を変えていくことだ。
その影響は、その場で終わらず、後世にもある。
ものが存在する限り与える。
人の世が変わっても、作者が死んでも、ものが存在する限り与える。
それがもの作りである。
2016年03月29日
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