編集には、本質的に違う二つのつなぎがある。
A→Bとカットを繋ぐ場合、
AとBが連続しているという意味か、
時間的に飛んでいるかである。
前者を連続、後者を離散と数学的に呼ぶことにする。
たとえば椅子に座って(A)ものを書く(B)という編集があるなら、
これは連続である。
だけど、ものを書いていて、
たとえば窓の外を写して(A)から、
書き終えた(B)カットに繋げば、
それは離散である。
すなわち、何らかの時間が省略されていると普通捉える。
映画、映像表現は、
連続と離散を巧みに使い分けている。
言われればそうなのだが、普段意識してないと気づきにくい。
それは、我々の意識は連続だと無意識に思っているからだ。
実際には離散である。
たとえば、通勤時間、怒られている時、趣味の没頭などは、
我々は意識が飛んでいる。
酒に酔ってるとき、発情しているときもそうだろう。
創作してるときもかね。
つまり、連続と仮定しているだけで、実際には離散がある。
寝るときもそうだよね。
でもそれは、「連続と仮定されている」のである。
我々は寝て起きたら別人にならない。
怒られたあとは元の続きをする。
意識は飛ぶが、連続だと仮定して生きている。
映画、映像表現は、この感じを使うのである。
連続しているときは、カットを繋ぐ。
離散の時は、シーンに割る。
これが原則だ。
昔(白黒時代?)は、シーンとシーンの間は、全部フェードアウト→黒→フェードイン、
という編集が常識だった。
カットで繋いだら連続に思われたからだ。
そのうち、意識が連続しているシーンはカットで繋ぎ、
意識や時間経過があれば、フェードアウトするようになり、
フェードからフェードまでの複数シーンを、シークエンスと定義した。
それも曖昧になり、
今やカットで繋ぐようになった。
(ハリウッドの脚本では、まだこの名残が残っていて、
脚本ではシーンの最後に、fade toとcut toを使い分けているらしい。
これも昔の情報なので今は違うかも知れない)
勿論、技法としてのフェードや黒味の表現は残っている。
今やフェードアウトは、気絶とかに使われやすいかもね。
時間経過というより、意識が飛んだ、という表現だ。
さらにモダンになれば、
カットが連続しているように撮られているのに、
あれ?今意識が飛んでた?などのように撮影編集するだろうね。
シーンとシーンの間は、日本の脚本では、
いまだに柱を立てて一行開ける。
これが意識の飛びに見えてしまい、
連続なのかどうか不明なことが多いよね。
大きく飛んでる時は、(後日)(数日後)(日替わり)などを、
柱に注記するけど、
それ以外は大抵連続を意味している。
また、同じシーン内でも、
窓の外を挟んで時間経過を示す例(カットアウェイという技法)のように、
離散が挟まれる時もある。
脚本記法上は、× × ×記号を使うが、
文脈で読み取れれば使わないこともある。
つまり、一定した法則はなく、
全ては内容次第である。
シーンとシーンのカットバックの同時進行のように、
シーンは飛んでいても意識は連続の場合だってある。
脚本家として意識することは、
それが連続か、飛んでいて離散かを考えればいい。
連続であることは緊張する。
失敗が許されない、休みなしである。
飛ぶと休みを入れられる。
飛んだとき、間に重要なことがあったかどうかは大事だ。
大抵重要なことがなかったから飛ばしたのだ。
けれどそう思わせておいて、というのはよくあるよね。
役者、つまり登場人物から見ると、
出番のない、飛んでいた間何をしていたかは、考えておくべき内容だ。
主人公が気絶してた間に彼は何をしたか。
主人公が怒られていた間に彼は何をしたか。
前のシーンにはいなかったがその間何をしたか。
重要なことをしてる場合もあるし、してない場合もある。
それはストーリー次第だ。
(大抵の初心者脚本家は、なにもしてないと設定してしまうから、
話が面白くならないのだ。そこで多くの入門書では、
このことはよく言及される)
それは、連続か、離散か?
とても細かいカットのレベルから、
シーンのレベルから、
シークエンスのレベルまである。
それは、脚本にしか書いてないことである。
2016年03月30日
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