「青い鳥」みたいなことだ。
解決が微妙な話があるとしよう。
カタルシスもなく、なるほどと膝を打つこともなく、
感動もなさそうなラスト。
そうなるときは、解決パートが悪いんじゃない。
問題パートが悪いのだ。
おそらく、問題が浅いんだよ。
もっと深く問題を示そう。
もっと深刻に、もっと複雑に、
もっと誰にもあるような問題に、
もっと感情豊かに、
もっとこじれて、
もっと人間存在の根幹を揺さぶるように。
その問題を、解決しよう。
同じ解決法では解決できまい。
もっと深い、根本的な解決が必要になる。
その深さが人を唸らせるのだ。
解決は、ある日突然どこからか湧いてくるのではない。
実は、問題の中に解決はある。
問題は、問題の中にどっぷりはまっているから難しいのであって、
客観的にそれを捉えられれば、
案外難しい問題ではなくなることのほうが多い。
我々が物語で描く問題は、
解決法が300年分からなかったゲーデルの数学的解法ではなく、
量子力学のような直観と反する問題でもなく、
神に関する人類がまだ回答を作れていない問題でも、
生命の定義に関わる問題でもない。
人間が、個人として、または集団として、
手や心で解決できる問題に限られる。
あなたが解決が思いつかなくて、
結局物語の結末が詰まらないのなら、
それは問題が悪いのだ。
その問題を、更に深く、深く、深く掘って行くこと。
必ず、人の手や、人の心で解決できる所にぶつかる。
物語は、数学や物理や哲学ではない。
問題に答えを仕込むことが出来る。
むしろ、そのように問題を作り直すことだ。
勿論、すぐに勘づかれてはならない。
しかし隠蔽し過ぎても納得が薄い。
そういうわけで、
「幸せは外にはなく、家にあった」という、
いわばどんでん返しの、
「青い鳥」は、素晴らしい解決と問題設定なのである。
解決だけを考えるな。
問題を作り直すこと。
深く深くに潜っていくと、案外シンプルなことにたどり着ける。
2016年03月31日
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