嘘もつき終わったので通常運転。
映像は視覚と聴覚なので、
匂い、味覚、触覚(痛みや加速感覚、温度や湿度、肌触り)
を伝えることはできない。
だけど大抵のことは伝えられる。
そういう絵を撮ることで。
では、視覚そのもののことについてはどうだろう。
たとえば色の表現だ。
深いコントラストの映像、
赤いドレス、
光溢れるきらめく世界。
これらの視覚的映像は、
「それが意味がある」ときだけ、
脚本に書いてよい。
映像の管理は、監督とカメラマンの領分であるから、
原則それは彼らが最も自由にしやすいように書くべきだ。
だからなるべく抽象的に書くか、書かないのが望ましい。
しかし視覚的なことが、ストーリー上意味を持つのなら、
それは書くべきである。
あるいは、象徴的な色は必要かも。
赤が血の色(闘いや犠牲)を意味していたり、
緑色が自然を意味していたりなどだ。
ストーリー上それが意味のあることなら、
脚本上でも明記しておくことだ。
ただ実際問題、
脚本家よりも監督の方が映像表現に長けているため、
あまり心配しなくてもいいかもだ。
たとえば色キチガイなクレラップの世界は、
台本にも絵コンテ(モノクロ)にも描くことは出来ない。
衣装イメージや世界観のイメージを、
「レトロポップな絵本のような」と言葉にした上で、
いくつかの写真資料
(映画では「ロッタちゃんシリーズ」「アメリ」「フリーキーフライデー」、
写真集では蜷川実花など)
をひっくり返して、少しずつ作りながら作っていった。
台本にはそこまで書いてなくて、
「ラップが切りやすい事を知ったがゆえに、
色々な所に貼りまくって怒られる」大筋と、
その小ネタ集(ゴミ箱、お菓子受け、お茶の筒など)が書いてあっただけだ。
つまり、ストーリーと関係なく、あの色彩表現があるのだ。
双方の可愛さのかけ算が、相乗効果になった例だ。
僕は監督として、あの台本(いたずら)をベースに色彩表現を作った。
そこが受けたんだけど、
色彩表現だけだと、何にも残らなかっただろうね。
話が逸れた。
つまり、ストーリーと色彩表現は、全く独立の変数である。
色がストーリーに関係するときのみ、
脚本に書いておくだけでよい。
迷ったら削れ。
意味が通らない時だけ復活。
この原則で削っていくといいよ。
2016年04月01日
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