2016年04月03日

仮面ライダーのテーマは何か(仮面ライダー1号批評2)

実写化や続編は、形ではなく魂を引き継ぐことだ、
なんて僕はよく言っているし、
ドラマ風魔ではその方法論が成功したと思っている。

じゃあさ、
オリジナルライダーのテーマは何だったか、
つう話やな。


勧善懲悪だろうか?
それは後半、少年ライダー隊が出てきて、
あとづけでつけたものではないだろうか?
思ったより大ブームになり、
世間体のために作った偽看板ではないか。

そもそも仮面ライダーは、
「怪奇シリーズ」として企画されていた筈だ。
だから「怪奇!蜂女!」なのである。
70年代は怪奇ブームであった。
オカルトの走りというか、
日常を異化する怪奇ものは、
怪獣だろうが宇宙人だろうが、幽霊だろうが殺人鬼だろうが、
ミステリーだろうがジャングルの食人族だろうが、
なんでも良かったのだ。
(ちょうどこれをモチーフとした水曜スペシャル、
川口探検隊シリーズが僕は大好きで、
川口浩亡きあと、藤岡弘、が継いだそのキャスティングに、
僕はなんと「わかっている人がやった!」と思ったか)

さて、怪奇ものは、
日常を怪奇で異化する。

どういうことかというと、
「我々が確固たる日常だと思っている現実は、
実は全然違う原理の元に動いているかも知れない」ということだ。
それは現実認識を根底から覆す不気味さである。

ミステリーゾーン、ウルトラQ、世にも奇妙な物語などは、
この系譜だ。変形に笑ゥせえるすまんがある。

この日常世界は単なる仮のものかも知れない、
と思わせることが、怪奇ものの役目だ。
それは、「今あることが絶対ではない」ことを意味し、
すなわちそれは、
「絶対でない今だから、変えることができる」ことを暗に示さなくてはならない。

怪奇ものは、すなわち、
「世界を変える力を持たずに、現実に絶望している人」を、
そうではないのだ、と勇気づけるジャンルなのである。
いじめられっ子が、いじめっ子を、怪物に食われればいいのに、
と妄想し、その間だけはいじめの事を忘れて、
いじめを相対化することに、役に立つのである。

物語は現実逃避だ。
現実逃避したら、再び現実に帰ってきたとき、
その現実に対処できるようになっていることが、
現実逃避の役目である。

会社の上司がムカついたとしても、
ライダーキックで粉々にする妄想をすれば、
まあいいや、お前はいつでも粉々に出来るから、
今は言うこと聞いといてやるよ、と態度を落ち着かせられるのだ。
それが妄想の力である。


怪奇ものは、だからファンタジーと同じだ。
グロテスクな不安を現実の裏に見る、
という方向性が違うだけである。


「仮面ライダー」の属性は、
この怪奇ものというジャンルをベースに、
「親殺し」の物語をもってきたところである。
ベースは抜け忍だ。
ある組織に作られた人間がそれを抜け、
追手を次々に殺し、理想の世界を手に入れる、
という物語である。
これは、親殺しとセットになっている。
今さらフロイトのエディプスコンプレックスの話をするのも恥ずかしいので、
各自調べて下さい。

つまり仮面ライダーとは、
「この世に生を受けた理由が分からず、
理由を作者(親、ショッカー)に吹き込まれたが納得がいかず、
それを悪だと自分で判断し、
自分の理想を求め、その親を否定して殺す物語」なのだ。
(ちなみに全く違うジャンルだが、全く同じ話に、
「ボーン・アイデンティティー」から始まるボーン三部作がある。
傑作である。三本目、組織のドアを開けるボーンは、
ショッカーの秘密基地、自分が改造されたベッドにたどり着いた本郷猛であった)


分かりやすくするために、親=悪、子=正義になっている。
問答無用で悪だといえる、ナチスをショッカーのモチーフにすることで、
さらに分かりやすくしているのである。


つまり、勧善懲悪はあとづけであり、
仮面ライダーとは、
「親に反発して自立する若者の物語」なのである。

最終的にこの若者は、自分の居場所を見つける。
言うまでもなく、立花藤兵衛、おやっさんの店だ。


これが、作者(石森章太郎や東映やテレビ局)の思惑以上に、
社会現象になってしまったため、
勧善懲悪やら秘密結社やら改造人間やら怪人やらの、
モチーフだけを生かして、
仮面ライダーは延々と再生産されることになった。

オモチャを一生売り続けるために。
(僕はもうベルトアクションやめればいいのに、
とずっと思っている)



本郷猛は、果たして親を殺せたのか?
親を殺し、自分の家庭をもったのだろうか?

正史扱いの「仮面ライダー1号」は、
親を殺した男の、その後を描かなくてはならなかった筈だ。


たとえば、抜け忍のサスケは、人になれたのだろうか?
抜け忍もののラストはいつも非情だ。大抵死ぬ。
見事抜けられても、目立たぬ一生を送って終わりだろう。

突然だが、僕は風魔の飛鳥武蔵のその後が描かれていないことに、
大変不満である。
絵里奈を失い、忍者を抜けた黄金剣を持つ男が、
その後どうなったか分からないのは、大変不満である。
つまり、抜け忍はどうなるか、
結末は常にぼやかされる。


仮面ライダー1号は、
その結末を描かなくては成立しない。
本郷猛はその後どうなり、
そして今また物語の中心になる意味とは何か、
つまり、親殺しとはどういうことか、という意味を、
語らなければ、
映画にする意味がないからである。

それが、仮面ライダー1号のテーマであるべきだ。
そのような要求が、正史扱いの続編にはあった。


当然というか、そんなものはなかった。

東映が次作るのに困ってるし、
なんか花火を打ち上げなきゃいけないから、
ちょっとやってみてよ面白そうでしょ、
という気持ち程度で、懐メロ扱いで藤岡弘、を担ぎ出したに過ぎない。

僕は役者藤岡弘、はあまり評価していない。
はっきり言うとバカだと思っている。
バカはバカなりに人柄が良いから、
悪い人ではなくいい人だとは思うけど、
無能役者にかわりはない。

つまり、バカを担ぎ出して、
現行ライダーのプロモーションに利用しようとしている、
その大きな流れは最初にある。

正統なる続編、
つまり親殺しの続きを描く意思など、どこにもない。


僕がおおっと思ったのは一行のみ。
「君は既に死んでいるんだね?」の所だ。
へえ、仮面ライダーゴーストってそんな話なのか、
と少し興味を持った。
だけどこれはゴーストではない。正史扱いの続編である。

それが「命とは何か」なんてエコ宗教みたいな問答をしても、
全く面白くない。
仮面ライダーとは、そういう話ではないからだ。
もしボーンが4作目をやるとして、急にそんな話をしはじめたら、
僕はスクリーンにビールを投げるだろう。



どういうアイデアがあり得たろう?
「親殺しはまた親殺しに会い、連鎖するのである」というのは、
中世以降よくある皮肉な話である。
少年ライダー隊が、本郷猛を殺しに来る話なら面白いだろう。
伊藤淳史(チビノリダー)に真面目にやらせても、あると思う。

あるいは、改造人間の披差別についても、あるかも。
これについてはXメンが既にやっていて、
ゲイの社会活動と重ね合わせた形で描かれている。
日本では部落、在日や障害者差別と絡めなければならないが、
まあ無理だろうなあ。
ヤクザならぎりぎりあるか。

「何故きみは改造人間になってまで、生きたいのか?」
というテーマは古いけど新しいかも知れない。
改造人間は義足や義手、サイボーグのモチーフも含む。
アレキサンダー大王の憑依とかやってないで、
「そうまでして力を手に入れたい人間とは何か」みたいなところに、
深く踏み込むのなら、改造人間の本郷猛の内的問題を炙り出せたはずだ。


と、ちょっと考えただけで、
これだけ人間存在に関わる根本的なテーマがあり得るのに、
それを全部避けて、
藤岡弘、と新進アイドルのデートとか、撮ってんじゃねえよ。
炎のなかからの復活は、
絵はかっこよかったけど話は滅茶苦茶だ。
(そもそもこれは仮面ライダーNEXTのオープニングで見たわ)

まあ、そんなことをガッチリやらないのはさ、
予告とか見れば明らかなんだけどさ。




つまり、我々はもうベルトを託されたと思うしかない。
暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけるしかないのである。

ということで、てんぐ探偵の筆入れをします。
あ、脚本添削スペシャルもやんなきゃ。
posted by おおおかとしひこ at 13:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とても興味深く拝見させて貰いました。
藤岡弘を担ぎ上げてるので、本家の仮面ライダー復活か!と期待してたのですが…

仮面ライダーシリーズのチーフプロデューサーの人も、仮面ライダーアマゾンズなるweb限定作品で、今の仮面ライダー連発は最早初期の狙いから逸脱してる、と発言してました。

なら作るなよ、というのが本音です(笑)

本家の石ノ森の仮面ライダー漫画版では、ちゃんと本郷猛の結末も描かれてましたね。
内容も怪奇ものでしたし。

好評だからって安易にシリーズ続投は止めてもらいたいですね。

そんな中、漫画の仮面ライダーブラックとテレビの仮面ライダークウガはおすすめです。

本郷猛はいないけど、ちゃんとその意思を継いだ、今の作品になってます。

未見ならば是非!
Posted by どら at 2016年04月03日 14:48
どら様コメントありがとうございます。

ブラックは、漫画全部、テレビはRXまでリアタイで全話見てました。
でもスーパー1以降のライダーには全部馴染めない。
「同じことの繰り返し」にしか見えないんだよなあ。

そういう意味で、ボーン三部作が、
結局仮面ライダーの真の最終回を見た気にさせたので、
それを本家が越えることを密かに期待してたのです。
まあ、井上敏樹ごときに何も出来ないんですが。


クウガは、HD撮影の下手さに二話で切りました。
ビデオ撮影なら「サイバーコップ」という名作もあるのにね。
僕がバリバリなフィルム主義者なのはちょくちょく書いている通り。
ちょっとは大人になったので、あらためて1、2話と最終巻だけでも見てみるかなあ。


渋谷東映に来てた客が、みんな初老だったのが哀れでねえ。
お前らは人生で、回るベルトを継いだのかと小一時間。
Posted by 大岡俊彦 at 2016年04月03日 15:48
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