2016年04月04日

テーマを口で言う馬鹿(仮面ライダー1号批評3)

色々とおかしなことのある映画だ
(焦点がすぐ途切れたり、話の途中なのにシーンが切れたり)が、
脚本的に一番ダメな所を指摘して批評を終えたい。

テーマを言ってはいけない。
これに尽きる。
映画は説教ではない。物語という娯楽だ。


この映画のテーマは、本郷が言う。
「命は繋がりだ」と。

え?

本郷猛の今までの人生で、
そういう結論に至る話ってあったっけ。
百歩譲って、晩年にそう至ることにしてもいい。
で、それに至った経緯は?

口では説明している。
世界で色んなものを見てきたと。
でも口だけだ。

口だけで言うことは、なんとでもできる。
だから行為で示さなければならない。
愛してる、君を一生幸せにする、
と口で言うのではなく、
一生指輪をはめる、銀行口座をあげる、
などの行為で示さなければならない。
それは、現実でもそうだし映画でも同じだ。
映画では、しかも、現実以上にドラマチックにしなければならない。
それが映画だ。

つまり、本郷猛は、
「身をもって、命は繋がりだ、をドラマチック示す」ことが、
この映画の主軸になるのである。

どうやって?
知らん。
そこが創作だからだ。

立花の娘とでもセックスしとけよと俺が悪口を言うのは、
ラストに本郷が死んで、お腹に子供が、
命は繋がってるのよ、とでもしろや、
という、この映画にテーマに対する皮肉である。
こういった、使い古されたドラマチックさすら使われず、
ノードラマの口だけ野郎だから、
この映画は糞なのだ。



なぜ命は繋がりだなどという、
本来の仮面ライダーとは異質なものを持ってきたのか。
ゴースト(命がない者)と繋げるためだろうか。
藤岡弘、がエセ思想家のようにこれを言いたいと言ったのだろうか。
(エンドクレジットに、企画藤岡弘、と入っていたのに僕は違和感を持った)

原因は不明だ。現代にライダーを復活させるとしたら、
こういうテーマが必要ではないか、と結論したのだろう。
しかし、それが、僕は既にずれていると思う。

ゴーストが初代から随分ずれている。
藤岡の武道家ぶりも随分ずれている。
それがテーマに現れている。


千歩譲って、このテーマが時代や我々の要求に合っているとしよう。
じゃあ、それは、行動で示すべきだ。

誰かがピンチになったら、
命を張って助けることだろうか。
それで死んだとしても、命は繋がるだろうか。
戦友のような、無言の関係を表現しても良かった。
たとえば、ノバショッカーは世界同時テロを行い、
たとえばヨーロッパのテロを、一文字隼人2号が止め、
アメリカのテロを風見志郎が止めた、とワンカットだけニュースが入る、とかね。
(多分それだけでおじさんはたぎるよ)

若者に継ぐのなら、本郷猛は死んでも良かった。
改造人間だから、体は動いてゴーストを助けてライダーキックをするけど、
脳は死んでいたとかね。
ライダーキックのまま動かなくなった1号、とかなら、
僕は号泣するよ。
「仮面ライダー最後のライダーキック」という話になるだろうね。

命が繋がる様を、そうやってドラマにしないと、
映画を観る意味なぞない。
藤岡弘、の説教ビデオや説教本を見てればいいだけだ。

そういえば東映はエルカンターレも作ってたな。
プロパガンダ映画は、演説じゃだめだって、
学ばなかったんだね。



テーマは言うな。
体で示せ。
示したあとに言ってもいい。
やってもないのに言うのは、実体のない説教だ。
つまりこの映画は、「うざい」。
posted by おおおかとしひこ at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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