2016年04月07日

脚本添削SP2016-7第二部:正しく書くには、正しく見ること

さて、再開します。
少し時間をおいたのは、まだリライトの方向性を迷っているからです。

とりあえず今までに考えたことをまとめます。
(こういう風に頭の外に出すことで、
頭の中のスペースを確保することを、僕はよくやります)

「石焼き芋ラリークロス」を、分析します。
石焼き芋ラリークロス.pdf


うまい料理を作るのに、欠けてはならないものは?
舌。
もちろん、料理の経験や理論や実行する腕は必須でしょうが、
その途中や結果が、うまいかどうか判断するのは、
舌であります。

脚本の場合、その判断力は目です。
(正確には想像力なのですが、
文章的に目のほうが舌に比較しやすいので)

目が悪いと、脚本を誤読したり、
面白くないのに面白いと判断したり、
面白いのに面白くないと判断したり、
もっと他にいいものがあるのを知らずに、良いと判断したり、
もっと悪いものを知らずに、最悪のものと判断したりします。

つまり、的確にそれを見ることが出来ないのです。

客観的に見るとはそういうことです。
よく、作者が自分の書いたもの可愛さに、
客観的になれないなどと言いますが、
他人の書いたものを正しく見る目がないと、
自分の書いたものなど、永遠に正しく見れないでしょう。
自分可愛さフィルターが除去出来たとしても、
正しく見る目がないからです。


我々芸術家というものは、
正しい舌のように、正しい目を持たなければなりません。
それはどうやってか?
沢山名作を見て、沢山新作を見て、沢山いろんな人と話すことで。
つまり映画好きがやることです。
そして多分、映画オンリーなんてあり得ない。
映画は総合芸術だから、関連する全ての芸術について、
豊かな目を持っていなければならないのです。

下衆な人間は、よその芸術は、パクる為に見ます。
上等な人間は、よその芸術は、目を肥やす為に見ます。

つまり、自分の発想が被らないように知っておくのです。
場合によっては、よその芸術から「発展した」オリジナルのアイデアにたどり着くでしょう。
それこそが、人類が営々と繰り返してきたクリエイティブという行為であり、
進歩というものです。
パクリはイミテイティブであり、進歩ではなく平行移動。
むしろ劣化コピーで後退であります。
佐野許さん、桃太郎糞、の僕のスタンスはそういうことです。



前置きはこのくらいで、本題。
つまりは、「石焼き芋ラリークロス」をどう見るか、
ということが重要です。
この見立てを間違えたら、あとにどんなことをやっても間違いだからです。

タイトルの引きが弱いので、第一印象で損をしています。
僕は手に取らないタイプです。

登場人物表がややこしい。尺に対して多い。
実際、読んでる途中、石焼き芋屋と改造屋が混同しました。
改造屋は削除でいいと思います。
「いいアイデアがある」と石焼き芋屋か主人公が言って、
もう次のカットで改造が出来上がってる、
という飛ばしをしたほうがインパクトとキレがあるでしょう。


さて、本編。

まず、いいところ。
石焼き芋屋をキャタピラー改造して雪原を走らせる、
というそのビジュアルアイデアが素晴らしい。
それが、過去のトラウマの清算になっている、
というドラマツルギーもよい。

ところが、それをやりたいが為に無理が生じています。
ご都合主義です。
妻と子が嬬恋の実家に行き(離婚かスノボか、
結局どっちつかず)、かつ立てこもり犯につかまり、
かつそれがトラウマの場所って。
妻と子が、ダンナの事故の場所へスノボに行く?
たとえ実家が近くても、避けるんでない?
まあそこはご都合と耐えたとしても、
三つが重なるのは、あり得ない偶然。
ここにご都合主義がいます。
二つが重なるのは、よく(フィクションでは)あります。
三つはやりすぎ。
一個を外すことを考えなければ。
ということで、これを外すには、何がテーマか、
から逆算しなければなりません。


読後感の良さに貢献してるのは、
「ラリーとは協力という意味だ」という豆知識です。
へえ、と思ったことが、豆知識と作品の印象と混同し、
作品の評価に混入します。
これは司馬遼太郎の手法。
まあ他の人もよくやるやり方でしょう。
ただし。
ただの豆知識披露は、蘊蓄に過ぎない。
それが、ドラマに貢献しなければ、蘊蓄野郎に過ぎません。

これを書くに当たって、調べものをした形跡があります。
石焼きの石は一回焼いとかないと割れる、とか。
これが何かの伏線かな、と思ったら、
出発前の発破にしか使われず仕舞い。
普通これがテーマやクライマックスに絡むべきです。
そうでなければ、石焼き芋を使う意味がない。
たとえば焼いてない石を焼き芋トラックで熱しておいて、
それを煙突から暖炉に放り込み、
破裂させることで立てこもり犯をひるませ、
それきっかけで特殊部隊を突入させるとか。

雨降って地固まるじゃなくて、
一回焼いた石は割れない、みたいに家族の象徴に使うとかね。

折角、知らないことを知ったのだから、
それを生かすべきなのです。
それが甘い。知って満足してしまっている。
ドラマに生かせないのなら、それは雰囲気でしかない。
つまりハッタリなのです。

調べものの危険な所は、雰囲気にしか使わない所。
それは単なる糞蘊蓄のハッタリ野郎。
だとしたら、削除する勇気が必要です。
折角調べたんだから使いたい、というのは悪魔の誘惑だと思いなさい。

人は、蘊蓄ではなくドラマを求めています。
ドラマに関係ないものは、削除する。
削除することで、15分という時間を、代わりに濃くしていくのです。
つまり、蘊蓄は薄め液に過ぎません。
ドラマへの害悪なのです。


僕がへえっと思った蘊蓄ポイントはこの二つ。
「ラリーとは協力」は、ではドラマになるか?
これは、夫婦や家族をラリーにたとえることで可能だと思います。
初読時、僕は勝手にそうだと思い、感心したのですが、
よく読んでみると家族の協力など描かれてませんでした。
この物語は家族の再生や復活でも、なんでもないからです。

離婚危機→ラリー→劇的復活→ラリーは協力だ、
という理想的な流れになっていないのです。

これは石焼きの石より深刻な問題です。
これがテーマだと言ってもいいくらいだからです。

さあテーマはなんでしょう。
「家族というラリーとは、協力である」になるはずです。
それは、バラバラだった家族が結束するというドラマで描けるでしょう。

なぜ妻や子は、心が主人公から離れ、そしてまたくっつくのか。
そこが描けてないから、この物語はこのテーマに落ちません。

妻や子は、立てこもり犯逮捕に、主人公が尽力したことを知りません。
来たことだけは認識してますが。
また、たとえ立てこもり犯逮捕に協力したとしても、
「ありがとう。でも離婚の意思は変わりません」だってあり得ます。

さあ、この話の問題点が見えてきました。
妻のサブプロットの不在です。
妻は、何を思い、なに目的で、どうなろうとしていたのだが、
主人公と喧嘩したり色々したことで、
劇的に、どうなったか、
という面白いドラマがないのです。
主人公のトラウマの克服は、彼女個人のドラマと関係がないのであります。
主人公のドラマはドラマチックかも知れないけれど、
それは彼の内面の話に過ぎず、
離婚問題とは関係がないのです。
彼女にとっては、
「あなた、トラウマを克服したのね!昔好きだった男が帰ってきたから、
離婚取り止め!」というドラマになっている、ということ。
第一に、他人がトラウマを克服したかどうかは外からは見えないこと。
第二に、そんなご都合主義な展開、
ということです。


これが別のテーマなら?
「トラウマは、克服することができる」と、
主人公一人に焦点を当てるとしましょう。

とすると、妻と子は既に離婚していて不在にしましょう。
立てこもり犯がトラウマの場所で事件を起こしているから、
そこへ向かうという話になる。

それじゃ動機が弱いと判断して、
妻子が立てこもり犯に捕まっている、
という部分が足されたことが分かりますね。

つまり、この話は、話が二つあります。
「トラウマを克服しなければならない事態に遭遇」
「離婚問題を解決」です。

一挙両得することで、うまくやろうとしたのでしょう。
結果は、二兎を追う者、になっていると思います。



このように僕は分析しました。

さあ、書き直す方針を立てなければなりません。
それには、テーマを決めなければ。

僕が一番へえっと思い、心が動いたことをベースにするのが、
一番心を砕けそうです。
ということで、「家族というラリーとは、協力である」にしますか。

「家族に対して、トラウマゆえに嘘をついていた男が、
それを克服することで家族を再生する話」と書けそうです。

二大柱、「トラウマの克服」と「家族の再生」を、
ドラマチックにクライマックスで統合する必要があります。

むずいなあ。


今回の話は、要素が多いと感じました。
ご都合主義が多いことが原因です。
多い要素が、ご都合主義によって接着されている感じ。
ご都合主義の接着剤を溶かしたら、
多い要素がバラバラになってしまうでしょう。

つまり、出来るだけこの二本柱の融合に尺を割き、
その他を捨てることが肝心になってくると思います。


僕はこのように見立てました。
勿論、他の見方もあると思います。
とある原作をどう映画化するか、という時、
様々な見方で上がりが全く変わるでしょう。
あるいは、自分の書いた原稿を直すときですら、
どう見立てたか、は、どう直していくのかと、直結します。

どう見るか。
それは単純に表面の感情を撫でるのではなく、
構造を見通し、それらの関係性を明らかにし、
理想(テーマ)の構造を想像する、
つまり、どこまで見抜くか、
と関係しています。

つまりは、目を肥やすしかないんですな。



今回はむずいぞ。
今のところ、劇的な離婚回避劇を思いついていません。
曖昧になっている、妻の立場からこの話を見ていきましょう。
posted by おおおかとしひこ at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック