妻のサブプロットの前に、
アクションの話をします。
この話のアクションの、一番面白いところは?
キャタピラーを履いた焼き芋トラックが、
雪原を進みトラウマを克服するところです。
それが、クライマックスになっていないのが問題です。
映画は絵で語る。
それは動かせません。
それが小説との違いでもあります。
映画は写真ではない。
つまり、動き、アクションで語るのが最上です。
そして、映画はテーマである。
すなわち、テーマがアクションで示されているのが、
マックス上等です。
それ以外は下等です。
さて、この話のマックス面白いアクションは、
実はテーマを示していません。
そこが問題です。
家族の再生を描く、グループハグというアクションが、
焼き芋ラッセルより、感動的でなければならないのです。
アクションの大小や予算の大小は、
実際のところドラマの大小と関係なかったりします。
予算がかかり、爆発がバンバンあるような派手な絵が、
最も感情をふるわせ、最も偉大なるアクションとは限りません。
むしろ映画というものは、
彼女の唇の動きのほうが、
どんな派手な爆発よりも強い感情を語ることがあり得ます。
そのような物語を書くべきです。
つまり、ほらさんは、
自分の思いついた凄いアクションに呑まれ、
(身の丈以上の思いつきのせいで)
物語のピークを見誤ったわけです。
家族の再生がピークになるべきなのに、
その前でピークが終わってしまっている。
それを早漏と世間では言います。
アクションに呑まれないために、
僕は一端全てのアクションを、じゃんけんに置き換えることをよくやります。
この場合、
「妻子を助けるために、
またトラウマを克服するために、
主人公は雪原でじゃんけんに勝たなければならない」
と置き換えてみるということです。
そうすると問題点が見えます。
劇的なのはつまり、じゃんけんではなく、
妻子を助けることと、
トラウマを克服することだ、
ということが分かるからです。
で、主人公の目的は妻子を助けることですが、
トラウマを克服することは、
サブ目的であることが分かります。
サブのために、
最も面白いビジュアルアクションを使ってしまっていることが、
この置き換えによって見えてきます。
この物語のクライマックスは、
「離婚危機を回避し、過去より強い絆で結ばれる家族になる」
であるべきで、
「同じコースのトラウマを克服」ではないことが分かります。
さあ、話がややこしくなってきました。
この構造でのベストの構成は、
第一幕:離婚危機、妻子が立てこもり犯に捕まる
第一ターニングポイント:トラウマの克服が必要
第二幕:雪原を越える工夫を凝らす、トラウマを克服
第二ターニングポイント:立てこもり犯の現場へたどり着く
第三幕:立てこもり事件解決、離婚危機回避
であることが分かります。
この中で、「家族というラリーとは、協力である」に落ちなきゃいかんわけです。
どうやって?
劇の殆どの間、離れている家族なのに?
ということは、
第一幕に、家族の協力の象徴が伏線になっていて、
それを第三幕のクライマックスで再利用することが考えられます。
さあ、これで殆ど原型をとどめなくなりました。
落ち着いて元原稿を見ると、
ラリー競技と石焼き芋屋の共通点、
「ただ速く走ることが重要ではない」ということを描こうとしていた痕があります。
これはこれで面白いのですが、
それは家族の再生や、トラウマの克服に、関係あったでしょうか?
なかったですね。
ということはバッサリカットでよい。
なんらかの伏線として利用できるなら、利用するかも知れません。
落ち次第でしょう。
でも、時間通りに来ることがクライマックスになる、
というのはなかなか思いつきそうにないですね。
(思いついたら面白そうではある)
クライマックスと前ふりを、今同時に考えているわけです。
仮にじゃんけんだとしても面白いもの。
それがストーリーであり、
ストーリーとは、問題の解決であり、
つまりは、問題という前ふり(伏線)と、それを利用した解決のペアだからです。
さて、仮組してみた上の構成。
二幕を大幅に膨らませてあります。
過去「ゼログラビティ」で議論したように、
お楽しみポイント、売りになる部分、
冒険の部分がキービジュアルになるパターンというわけです。
ということは、
一幕部分に当たるところは、随分捨てなきゃならんということ。
立てこもり犯の登場が第一ターニングポイントだから、
15分のうち、そこまでを5分で済ませなきゃならない。
つまり、
焼き芋屋との出会いとか、
焼き芋屋とはどういうことか学んでいくこととか、
ラリーのトラウマを、
バッサリカットする必要があるということです。
(ラリーのトラウマは主人公の重要な内面なので、
一幕のオープニングで描くのが順当。
ただし、それより重要な家族のセットアップをするべきでしょう。
二幕でトラウマのことを話すことで、
一幕の尺を稼ぐパターンを、現時点では予想しています)
削ることは、重要なことを残すこと。
重要なことは何かを決めること。
重要でないことを決めること。
ほらさんの中には、
焼き芋屋との出会いや、登下校する人たちを焼き芋トラックから眺める絵などが、
最初に浮かんでいたかも知れません。
そこに執着しては、重要なものを見失います。
重要なものに、素晴らしい絵を作る。
それが創作であります。
そろそろ仮タイトルを。
「焼き芋ラッセル」がキャッチーだったのでそうします。
元々のタイトル「石焼き芋ラリークロス」は、
良くないタイトルです。
修飾語が多いからです。
「ラリークロス」がまず、我々には知らない単語です。
一応調べると、競技としては存在するけど、
日本で馴染みのある単語ではない。
ラリークロスを日本語で一般的にいう単語は、「ラリー」です。
こういう言葉の感覚は重要です。
何が一般的か分からないと、
マスコミュニケーションは出来ません。
あと、「石焼き芋」と「焼き芋」の違いは?
原理的には落ち葉で作るより石焼きのほうが中まで熱が浸透しやすく、
美味しくなることは分かります。
しかしその違いが本編で使われたわけではない。
あの、石焼き芋屋のトラック、ということを言いたいだけです。
タイトルは簡潔であるべきです。
少なくとも、「焼き芋ラリー」という所まで、
このタイトルは削ぎ落とすことが可能です。
でもいまひとつイメージが湧きにくい組み合わせになっている。
ということで、雪関係の言葉、ラッセルを持ってきて、
「焼き芋ラッセル」という組み合わせにたどり着いた訳です。
修飾語はひとつ。概念もひとつ。
精々2.5までの組み合わせ。
それが「一言で言える」ということです。
(ジブリのタイトルはAのBというパターンが多いことで有名。
これらは、概念と概念の組み合わせで2を作り、
どちらかに修飾語をつけて2.5にしています。
「風の谷のナウシカ」「もののけ(の)姫」「天空の城ラピュタ」などなど)
そこでエッジが立つように、タイトルはつくるべき。
それはどういうことかというと、
内容が整理されて、それがエッジがたち始めている、
ということなのです。
理想を言えば、焼き芋かラッセルが、
「家族の再生」というテーマに関係することでしょう。
現時点では思いつかないので、
「焼き芋ラッセル(仮)」としておきます。
2016年04月07日
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