過去記事でも議論したことの、実践的検証です。
元原稿の捨てた部分を見てみましょう。
何のために捨てるのか。
好みで残したり、捨てたりするのではありません。
勿体ないから残す、
良くできてるから残す、
未練があるから残す、
なんとなく書きたかったから残す、
ではありません。
ストーリーの構造(テーマの構造)に必要だから存在する。
そこは省略しても伝わるなら、捨てる。
原則はそれだけです。
(機能させる部分を残す、という訳語が当てられますが、
原語の、it worksの方が分かりやすいです。
ストーリーが働く部分、と意訳した方が良いでしょう)
そうやって贅肉は落とします。
贅肉を落とすと何が残るかというと、
機能するパーツだけになるということです。
ざっくりいうと、
薄い話が濃い話になります。
スカスカが、みっちりになります。
だらだらが、緊張しぱなしになります。
どこへ向かっているのか分からない話が、
明確にひとつの場所へ向かう話になります。
結局なんの意味がある話か微妙だったものが、
明確な意味を持つ話になります。
各場面が思いつきで繋げたようなものだったのが、
全ての場面が連関した、有機的構造になります。
そういう風に、捨てて残すのです。
ラリークロス捨てたところ.pdf
表紙のログラインをもう一度見てみましょう。
この話の複雑さ(ご都合主義)が、如実に出てますね。
大岡式ログラインでは、原則、動詞はひとつ。
つまり、「転身する」か「助け出す」なのかを選ばなくてはならない。
選ぶことは捨てること。
つまり僕は、後者を選ぶことで前者を捨てて「助け出す」という話にしたのです。
もちろん、逆に後者を捨てて前者を選び、「転身する」という話にしたり、
第三の動詞をひねり出してもOK。
リライトには無限の出口があり、
まずはその方針を決めなきゃいけないんですよ。
それについては正しく見極めることが必要。
あとは、どれだけバッサリ捨てているかをお楽しみ下さい。
逆に、何が残るかを見てください。
捨てることは残すこと。
残ったそこのところが、この話のエッセンスです。
つまり、エッセンスを上手く残して、
あと丸々書き直したとしても、
それは同一の話に、しかもよりよく見えるようにする、
ということです。
この辺が風魔実写化の際に最もうまく行ったところ。
何をエッセンスだと思うか、
それをどう選んで残すか、
残りをどう書き直すか、
それ全てがセンス。
ていうか、センス以外にそれを示す言葉が存在しないのが悲しい。
「リライトの眼」とでも言っとくか。
正しく見ること。
これが一番大事。
あとは、正しくやればいいだけ。
ちなみに僕は、テーマや構造からのアプローチで、
統一性を持たせるように留意してるつもりです。
ちなみに、残したところだけのファイルを作ってみました。
ラリークロス_残ったところ.pdf
参考までに。
さて、次回は両者の「構造」を俯瞰してみましょう。
2016年04月11日
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