ログラインについては、わりと最古の記事に近いし、
いまだに検索からたどり着いた人が月100人見たりする人気記事だったりします。
一般的なログラインの定義は、
「数行にストーリーをまとめたもの」
(下手したらアオリのみ)だったりしますが、
大岡式ログラインは、
なるべくストーリーの根幹に迫るような定義をしています。
再掲します。
「Aな主人公が、Bに出会い、Cする話」
というフォーマットです。
A:主人公の欠落、渇き、欠点
B:異物、非日常、外的コンフリクト
C:動詞。これが二幕全体、三幕の解決全体をさす動詞に
をうまく選んで下さい。
Aを専門的な言葉で内的問題といいます。
内的問題というとトラウマばかりを連想させるので、
「主人公が一人で抱え込んだ問題」とでも考えて下さい。
今回のリライト版では離婚問題(彼以外は解決できない)、
元原稿では事故のトラウマです
(そしてトラウマ克服は真の解決に見えていないのが欠点)。
Aは大抵物語の最初のほう、一幕前半に示されます。
最も早いのはオープニングか、主人公初登場時。
遅くとも主人公の二回目登場時です。
これが解決すれば、主人公の溜飲は下がり、
お話はめでたしです。
つまり、全体の「最初の前提」です。
Bは異物です。
異物というのは僕の造語で、
主人公の日常に持ち込まれた、いつもと違うもの、
センタークエスチョンからヘラルドまでの全てかどれかを指します。
物語では、解決しなければならない事件が起きます。
大抵Aとは別のことで。
Aは主人公の内部(一人のこと)で
「くすぶり続けて解決の目処がない問題」ですが、
これは可及的速やかに対処しなければならない、
大抵は他の誰かと協力して解決する問題です。
(専門用語で外的問題)
たとえば殺人事件とか。
今回の例は立てこもり事件でした。
それを「代表する何か」をBに書いてください。
センタークエスチョンを必ずしもBとせずに、
巾を持たせたのには理由があります。
こういう短編では、Bは即センタークエスチョンですが、
長編ではいきなりセンタークエスチョンは始まらないからです。
たとえばマトリックス。
センタークエスチョンは、「救世主となり人類を救うこと」ですが、
いきなりこれは出てきません。
謎めいた美女トリニティとの出会い、
導かれたモーフィアスの館、
と、徐々に、謎解きのように話が進みます。
いきなり本題では、はあ?となるからです。
マトリックスは、ごく普通の日常から、
トンデモ世界のセンタークエスチョンに行くまで30分、
一幕全体をかけます。
リアリティー、実在する感じを出すためです。
つまり、
B1(トリニティ)→B2(モーフィアス)→B3(センタークエスチョン)
と、主人公ネオ(と我々観客の心)は、
餌をちょっとずつ置かれて罠にかかる鳥のように、
徐々に誘導されているわけです。
本命B3に対して、撒き餌B12を、使者(ヘラルド)と言います。
これ以上知りたければ私と来い、という役目。
短編では難しいでしょうね。
大岡式ログラインでは、
Bを、B12(ヘラルド)としても、
B3のセンタークエスチョンとしても、
どちらでも構いません。
マトリックスは、
この世界が夢ではないかと疑うハッカーが、
謎の美女トリニティに出会う話でもあり、
伝説のハッカーモーフィアスに出会う話でもあり、
世界を救う救世主となるため、リアルワールドと出会う話でもあります。
要は、映画全体で解決する問題を、暗示出来ればよいのです。
最後にC。
これは動詞を選んでください。
主人公は行動しなければなりません。
何故か?
三人称形式だからです(これについても過去記事が沢山あり)。
観客の立場から見れば、
主人公が全然行動しない意気地無しよりも、
どうしても行動せざるを得ない状況に追い込まれ、
(ダイハードのマクレーン刑事はそれをボヤキ芸に昇華したネタ)
行動をしまくり、失敗しまくり、ラストに大成功するのが、
一番面白いからです。
映画という見世物は、「その行動を、
終始手を変え品を変え、見せる見世物」です。
マトリックスは、思いが具現化する超能力に目覚める見世物、
ロッキーは、ボクシングの世界戦に挑むロートルの見世物です。
ルパン三世カリオストロの城は、姫を救出し贋札を暴く見世物、
ドラマ風魔の小次郎は、夜叉一族を壊滅させる見世物です。
ただ理由もない殺戮や身勝手な行動は迷惑なので、
それには理由があると言い訳が立ちます。
それがAやBなのです。
これを劇的動機といいます。
劇の上の、という意味であり、
必ずしもドラマチックである必要性はありません。
Aという個人的悩みを抱えた主人公が、
Bという事件に出会い、
それらを解決するために(動機)、
Cに代表される一連の行動をする見世物。
それが映画です。
これは僕の定義です。
(これに当てはまらない映画で、
すげえ面白かった例を知りません。
むしろ俺の定義が正しいか検証したいので、
反例を教えて!)
さて、三幕構成というものがあります。
一幕では、
主人公の内的問題Aを、最初のほうに示します。
そんな主人公がある日Bに出会います。
Bはヘラルドでもセンタークエスチョンでもよろし。
いずれにせよ、
センタークエスチョンを解決する旅に出ます。
その旅に出る決定(それは自分の行動に責任を持つこと)の場面を、
第一ターニングポイントといい、
一幕の最後(今回15分のシナリオでは、5分、5ページ目)に来ます。
ここで、観客は、
「主人公は果たしてC出来るのだろうか?」
とワクワクハラハラしなければなりません。
これをセンタークエスチョンの提示といいます。
第二幕は、
主人公は、大きく言うとCの行動をします。
大抵はサブゴールを作り、
一つ一つクリアしていきます。
四天王を倒すなんてのは、数えることの出来るサブゴールです。
現実世界にはそういう分かりやすい段階的サブゴールはなく、
大抵入り組んで複雑です。
その絡まった状況を徐々に解していくのが、
主な行動になるでしょう。
勿論快進撃、成功ばかりしていては嘘臭いので、
間で失敗したり立ち直ったりの、
成功へのシーソーゲームがあることが多いです。
中でも3/4あたりでは、
失敗や死を思う、「死の気配」(ボトムポイント)
と呼ばれるパートがあると、
トンネルを抜けたようにその後が上向きに見えてきます。
さて、大抵は、
問題解決は、あとたったひとつの解決をすれば良い、
という所まで来ます。
更に大抵は、それが一番危険だと分かっています。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、
の、一番奥底に来たというわけです。
このクライマックス直前を第二ターニングポイントといいます。
ここで再び、
観客は思うのです。
「果たして主人公は、C出来るのだろうか?」と。
センタークエスチョンの提示です。
わざわざ提示しなくても、思えばOK。
(リライト版では、ロッジが見えることで暗示が行われています)
思わなければ、この話に引き付けられているとは言えません。
なにせこのあと、決戦と決着があるんですから。
三幕は、
全ての決着がつくポイントです。
そこにリスクがないと詰まんないよね。
一番危険だからクライマックスというわけです。
(リスクの確認は第二ターニングポイントで分かっているはず)
よくなんか言って決着、なんてパターンがありますが、
それにはリスクが伴わないと面白くない。
リスクを越えるのが行動です。
映画は行動を見せるものです。
英語では行動はアクションといいますが、
日本語のアクションは、爆発とかバトルなどに限定されています。
全ての行動には、爆発のようなリスクがある。
そう思えば、全てはアクションです。
前に議論しましたが、
アクションは爆発やカーチェイスやカンフーである必要はなく
(勿論大好物だけど)、
じゃんけんでも構いません。
むしろじゃんけんに置き換えることで、
話そのものの面白さが面白いかを、チェック出来るでしょう。
最終的に問われるのは、
C出来たか?です。
それは、Bからはじまった問題が解決したかどうかです。
また、Aが解決したかが実際には重要です。
Bが解決しただけじゃあんまり面白くない。
たとえば多くの15秒CMは、
「問題Bを、(主人公の代わりに)商品がCする」という構造だから、
ペラッペラで面白くありません。
(それを面白くするためにストーリー型CMがありましたが、
それは最近減りました)
人が興味を持つのは、
目先ではBですが、本心ではAだからです。
逆に興味を持つ、ABが揃っていないとだめです。
人はAに無意識で惹かれ、
目ではBを楽しみます。
Bの解決Cは、裏ではAの解決が埋め込まれているのです。
ここのバランスこそが、
映画が面白いかどうかという要になります。
(リライト版では、Aは離婚問題、Bが立てこもり犯)
最終的に、テーマは暗示されます。
Aが解決するにはCが必要だった、
という話に最終的になるわけだから、
Cは素晴らしいとか、
Aの逆は素晴らしいとか、
Aの逆にはCが必要だったとか、
になるでしょう。
テーマを言うのは野暮中の野暮だと、僕はよく言いますが、
それはつまりAC間の構造がない、ということなのです。
ACをきちんと作れれば、
テーマは暗示できるからです。
再掲しておきます。
リライト版「ラリー・ザ・石焼き芋」のログライン:
離婚寸前の元ラリー経験者が、
立てこもり犯に捕まった妻子の救出をして、
離婚危機を回避する話
見事に、ABCの関係が捉えられています。
ログラインは、書く前に書くものではなく、
書き終えたあとに書くべきものです。
全部がちゃんとした、スッキリした構造かを、
チェックする鏡のようなものです。
書く前にプロットを書けとか、ログラインを書けとか、
そういう初心者向けの指導を僕は信用しません。
何故なら一度も最後まで書いたことのない人が、
全体像なんて見えてる訳がないからです。
最後までどうにでも書ける人だけが、
忘れない用のメモとしてプロットやログラインを使うのはいいのですが、
最後まで書けない人は、
プロットさえ書ければ、ログラインさえ書ければ、
作品が書けると勘違いします。
それは、短いものを書ければ、長いものを書く労力を減らせるのではないか、
という手抜き願望のイリュージョンに過ぎません。
長いものを書きおえた労力を、
最後に本質にさらに凝縮する行為が、
ログラインを書くという行為であるべきです。
で、ログラインを見て、この話はログライン通りの話かなあ、
と考えて、またリライトに入るべきです。
晒し者のように、
元原稿「石焼き芋ラリークロス」のログラインを見てみましょう:
事故で引退したラリーのコ・ドライバーが、
石焼き芋屋に転身して、
雪山で事件に巻き込まれた妻と子供を助け出す
一見、
Aが、事故のトラウマ、
Bが、石焼き芋屋との出会い、
Cが、助け出すという力強い動詞ですが、
実際の中身は、これらを生かした構造にはなっていません。
事故のトラウマを克服して助け出すことはしていますが、
重大な離婚の問題は解決したとは言えないでしょう。
また、内的問題の解決が、
「同じコースをまた走り、何故だか完走」という、
意味のわからない解決になっているのもダメですね。
あのときはこうだったが、
今回はこうしなければならず、
それにはこういうリスクがあり、
それをこうやって解決したのだ、
という納得に足る物語が、
テーマを語るはずです。
「前は失敗、今回は成功、なんでかわからん」は、
リアルにはありますが、物語ではありません。
だとするとテーマは「偶然最高」になってしまいます。
それは語る価値のある、
わざわざ石焼き芋屋とラリーを使ってまで話す話ではないでしょう。
たった数行に、
三幕構成の凝縮が行われている。
それが大岡式ログラインであります。
初心者には使えない道具でしょう。
これが書ければ中級者卒業ぐらい?
つまりは、ログラインを見れば、
中身を見なくても、話のレベルはバレバレなのですね。
今回は9本でしたが、
100本見なきゃいけないとしたら、
僕はログラインからはじくと思います。
世の中に価値のある話を、見たいからです。
さて、大岡式ログラインが、
ログライン業界で全ての中で最高の保証はありません。
僕のこの考え方がストーリーに関する最高の考え方とも限りません。
参考までに。
さてと。
そろそろ、全貌を尽くしたかな。
最後にガワと中身の話をして、
今回の脚本添削スペシャルを締めますか。
2016年04月12日
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