この辺をもう少し掘ってみよう。
たとえば。
以下、○をト書き、●を僕らの気持ちで。
○男が泣いている。
●おや、この男は何が悲しいのだろう。
↓
○とある女が通りかかる。男は泣かないふりをし、笑顔で。
●この女には見られたくないのだな。この女にふられたのか?
↓
○男は彼女に花束を出すが、拒否される。
●やはりそうか。
↓
○男、彼女の背中を見て再び泣く。
●悲しいのう。
↓
○そこへ新しい女が声をかけ、二人分のアイスクリームを出す。
●そうだ、その女でいいよ。
↓
○しかし男は彼女の去った方向を見たまま。
●やはり彼女が忘れられないのか。
↓
○二番目の女、悲しそうにアイスクリームを舐める。
アイスクリームは溶けて行く。
●恋はうまくいかないなあ。
たとえばこういうことだ。
サイレント映画とは、音楽の力はあるものの、
基本的には、動詞(ト書き)で表現されることから、
「何が起こっているか、推測する」というものである。
台詞なしでも、
人の表情(泣く顔、彼女を追う目)や、
人の動作(花束をあげる、拒否される、アイスクリームを二個持ってくる)や、
小道具(アイスクリームが溶けて行く)などで、
ストーリーを表現して行く。
僕はサイレント映画の台本を見たことはないが、
おそらく場所(と天候や時間などの柱)と、
ト書きだけだろう。
音楽に関しては、編集し終わってから作ったはずだ。
台詞を時々黒に一枚文字として出すけど、
それは余程特別なとき、
すなわち、ト書き(動詞)で表現できない情報の時だ。
たとえば「今日の夕方までに仕事を終えないとクビだ!」とか。
サイレント映画は、台詞は従で、ト書きが主である。
初期の映画は、すなわちパントマイムであった。
サイレント映画で、殆どのカット割と映画の芝居は、
完成しているのである。
チャップリンの映画を何本か見てみるとよい。
およそ、我々がト書きで書くものよりも、
更に豊かなト書きだけの世界が広がっている。
台詞を使えない制約のなかで、
動作やカット割だけで、
ストーリーや感情を伝える方法が沢山発明されたのだ。
ためしに、モンタージュをしてみよう。
○男が泣いている。
●おや、この男は何が悲しいのだろう。
↓
○とある女が通りかかる。男は泣かないふりをし、笑顔で。
●この女には見られたくないのだな。この女にふられたのか?
↓
○突然、杉花粉が舞うインサート。
○(男に戻り)男、ものすごいくしゃみをし、泣く。
●花粉症かよ!女無関係かよ!
この場にないものをインサートするカット割によって、
ストーリーは急に変えることが可能だ。
編集の発見である。
手元のアップ、表情のアップ、
見ているもののアップ、主観カット、
カメラに背中を向けているものを切り返しで正面を見る、
などによって、
映画は編集でものを語る文法を獲得してきた。
つまり。
台詞など使わなくても、
映画なら、七割方ストーリーを伝えることは可能だ。
動詞と、次に何を描くかという構成(編集)によってだ。
これが映画台本の、実は基礎の基礎なのである。
あなたは、台本を書くときに、台詞ばかり考えてやしないか?
ト書き(正確にはト書きには状況描写も含まれるから、
動詞のみ)のみで、台本を書いてみてはどうか?
5分の話を沢山書け、と僕は常々言っている。
新作のサイレント映画を書いてみよ。
あるいは過去作を、サイレント映画にしてみよ。
どこまでギリギリ台詞を削れるだろうか?
何を残さなければならないか?
どう動詞やカット割で表現すれば、
この人の気持ちや状況は伝わるのか?
(勿論、音楽の力は借りてよい)
それらを一度真剣にやってみてはどうかな。
勿論、自分でサイレント映画を演じてみるのも勉強になる。
サイレント映画を動詞に起こすのも、勉強になる。
自分の経験だけど、
「多分、大丈夫」を撮影するときに、
居酒屋で、実際にビールやツマミありで、
食いながら飲みながらやろうかという話もあった。
予算や手間を考えて(実質スタッフは俺一人なので)、
黒バックでふりだけでやろう、と僕は提案した。
それはふりで、みんな理解すると。
演劇ってそういうことだよね。
私たちは、リアルなことの記録を取るのではない。
リアルに見える、あるいはリアル以上にリアルなことを、
芝居で語るのである。
私たちは芝居の台本を作っているのである。
動詞の台本を作っているのである。
そこで何が起こっているか、
その人はどういう気持ちなのか、
何を考えているのか、
何をして、結果はどうなったのか、
それはどういう気持ちなのか。
それらは、ほとんどサイレント映画で表現することが可能だ。
動詞というパントマイム、
カット割の組み合わせで。
2016年04月14日
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