認知科学、認知心理学あたりの言葉かな、アフォーダンスという概念は。
僕は専門が人工知能なので、大学の頃に知った。
(もう二十年以上前か…)
素材のアフォーダンスを見極めることが、
リライトの本質を掴むことである。
難しい話になりそう。
アフォーダンスというのは、
その物体が持っている、「そうしたくなる感じ」のことだ。
安定したいいテーブルは、
ものを置きたくなる感じや、
そこで物書きをしたくなる感じや、
コーヒーを飲みたくなる感じを持っている。
スポーツカーは、
空気を切り裂いて走る感じや、
モテる感じを持っている。
ダチョウ倶楽部と熱湯風呂は、
「押すなよ!」という感じを持っている。
日本語だと変な感じだが、
英語だと、
A has affordance that B, C, ...
というSVO文型で書けることが新しかった。
つまり、人工知能において、
あるものが持つ「文脈」の定義文に使えるぞ、
ということで注目された概念であった。
これは、文化によってデフォルト値が異なる。
外人は日本の玄関で「靴を脱ぎたくなるアフォーダンス」を感じないし、
ダチョウ倶楽部と熱湯風呂を見ても、押すか押さないかというアフォーダンスは感じない。
さて。
リライトの話をしよう。
脚本は、第一稿で完成ということは滅多にない。
なぜか。
第一稿が、大抵滅茶苦茶で、しょぼいからだ。
だから、良くなるように書き直すのが習慣である。
また、現場や各方面の要求で、
書き直しは沢山あり得る。
(突然思い出したのだが、風魔の6話、
アニメの脚本家が書いてきた第一稿では、
プールで小次郎が風魔烈風をかまして、
竜巻を起こす場面があった。
絵は面白いが、それをやると、その代わり、
その後の霧幻陣の霧か、雷電の雷がなくなる計算だ。
予算のない現場では、CGは一点豪華にしなければならない)
また、原作ものを実写化するときなどは、
それそのものが大きなリライトである。
さて本題。
脚本添削スペシャルでも示したことだが、
リライトというのは、
素材のアフォーダンスを見極めなければならない。
そのアフォーダンスが示すことを、
きちんとラストまでやりきれるか、
が、リライトの一番のやり方である、と僕は思う。
今年の添削スペシャルを例にとる。
過去のラリー事故というネタは、
「現在でそれを反省し、乗り越える」というアフォーダンスを持っている。
嫁が実家に帰るというネタは、
「追いかけて捕まえ、土下座して、もとに戻る
(または完全決裂する)」というアフォーダンスを持っている。
石焼き芋というネタは、
「暖かい、ほっこりする、生命力」などのアフォーダンスを持っている。
つまり、この三つのネタを並べただけで、
「嫁を追いかけて捕まえ、土下座してもとに戻る。
過去の反省をふまえる。
そしてそれは、暖かくほっこりすることが芯にある」
というストーリーを作らなければならない、アフォーダンスがあるのだ。
上二行を、「同じ原因」にすると話が濃くなる、
という僕の予想は、アフォーダンスを見極めれば、
すぐに出てくるアイデアである。
また、三行目を実現するアイデアとして、
「犯罪現場への差し入れ」「最後にみんなでコールする」
というアイデアに結びつく。
それさえ思いつけば、
「差し入れのふりをして、潜入捜査、
その際に嫁にあやまる」という段取りを思いつく。
あとは、「石は下焼きしないと割れる」という石焼き芋ネタから、
潜入捜査において、
これを犯人の数を伝える道具に使うことを思いつけばOKだ。
元原稿では、石焼き芋のアフォーダンスが、
あまり生かされていない。
力強い走破がクライマックスで、
心暖まる感じが殆どない。
つまり石焼き芋は、必要ないくらいだ。
過去の事故のアフォーダンス(過去の克服)も、
いまいち生かされていない。
それをどう乗り越えるかは、
人生の一大事のはずなのに。
つまり元原稿は、集めた素材を、生かし切っていない。
僕のリライトの方針は、
集めた素材のアフォーダンスを、
生かし切るように、話を組んだのである。
で、勿論風魔の実写化についても、
同じことをしている。
学園もののアフォーダンスを生かすこと。
(原作では影三兄弟以降忘れられてる)
壬生という武蔵の影のようなアフォーダンスを生かすこと。
(生かしすぎた?)
聖剣のアフォーダンスを、先に前ふること。
(原作は唐突に聖剣が登場する。
車田という漫画家は前の設定を全部忘れて捨てる人である。
連載漫画のスタイルでは正しいが、それを完結する形に、
僕は再編集したようなものである)
などなどである。
「いけちゃんとぼく」のリライトの失敗もこれで分かる。
制作途中で一億予算が削られ、
CGカットを半分にする決定を、
僕は上手く脚本に生かせなかった。
いけちゃんの出番を削ったあとに残ったもの、
すなわち「子供たちの再生」というアフォーダンスを、
僕は序盤に上手く組み込めなかったのだな。
序盤で出てきたネタのアフォーダンスを、
最後までうまく生かしてラストまで結びつけること。
要するに、お話とはそういうことなのだ。
何故ドラマ風魔は、原作と全然違うのに、
原作にガワは忠実なアニメよりも、
風魔なのか?の答えは、これだ。
原作のアフォーダンスが、
うまく結実するように、
全てを作り直したからだ。
これは、4コマの直しかたのコツ、
「落ちは1コマ目と関係するものにする」も含む。
最初にあるアフォーダンスが、
最後に決着がつくと、
人は満足するのである。
落ちありきなら、逆に最初のアフォーダンスを、
それに合わせて変更しなければ、
この係り結びがうまくいかないのである。
「包丁が牛を解く」という故事がある。
包丁(ほうていという個人名。包丁の語源)は、
牛を解体するのに、なんの苦労もなくスイスイと切り分けた。
何故そんなにうまく行くのかを聞くと、
牛の持っている構造を読み取り、
それに逆らわず刃を当てるだけでスイスイと解体できると。
解体できないのは、目に逆らって刃を当てているからだ、
という話。
木彫りのときも、木目を読んで彫れと言われるよね。
話作りにおけるそれは、
題材が持つアフォーダンスを見極める、
ということに尽きるのではないかなあ。
「ラリー・ザ・石焼き芋」は、
「石焼き芋ラリークロス」が、
やろうとしてやれなかった、理想的なストーリーを、
作っているような気がするのは、
そういうことではないかな。
第一稿から、第二稿へ。
準備稿から撮影稿へ。
撮影素材から最終編集へ。
あるいは、原作から実写化台本へ。
脚本は、何度となくリライトの工程がある。
そのたびに、
素材のアフォーダンスを生かし切っているか、
確認してみるとよい。
「普通これが出てきたら、あれを期待しちゃうよね」
という、ごく普通の感覚なんだけどね。
その期待に答えていないのが、大抵詰まらない脚本。
期待のさせ方か、答え方か、どちらかが間違っている。
勿論、期待に答えるだけの、
面白いストーリーテリングの腕が必要なのだが。
2016年04月15日
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