四月になったというのに、初心者むけの記事を全然書いてなかった。
脚本添削スペシャルは、レベル高すぎてついてけないよね。
ということで、
ストーリーを勉強するにはどうすればいいか?
という、何から手をつけていいのか分からない人への、
アドバイス。
ストーリーとストーリーじゃないものを、分離する力を身につけよう。
脚本添削スペシャルでも書いたけど、
実は「正しく見る目」は、脚本家にとって必須条件だ。
正しい舌が、料理人に必須なのと同様に。
手先が器用な凄腕の料理人が、京都で何年修行しようが、
フレンチで何年修行しようが、味見が出来なきゃ意味がない。
これはうまい、これはまずい、が分からないと、
全ての行為は意味がない。
脚本家にとってのそれは、何か?
正しい目だ。
おもしろいか、おもしろくないかを判断する目である。
(正確には想像力とかの、脳なのだけど、目にたとえよう)
さて、正しい目にまず必要なのは何か?
その作品のうち、
ストーリーの部分とストーリーじゃない部分に、
切り分けることが出来るか、ということである。
ストーリー部分だけを、全体から分離できるかということ。
料理人でも同じだね。
料理の塩味だけを分離して感知できるよね。
それと同じ。
たとえば。
出演者はストーリーに関係する?
しないよ。
その役が、どういう事情を持っていて、
どういう感情になり、
どういうことを言い、どういうことをして、
どうなったかは、
ストーリーだけど、
それと出演者は分離できる。
役者を代えることは可能だからだ。
勿論プロの作るものは、
最適な役者が最適な役に与えられているから、
なかなか分離出来ない。
だけど最近のごり押しキャスティングで、
「無理のある配役」というのがちょっと見えたよね。
ゴーリキさんの役は、大抵別の女優がやったほうがよくなる。
そして、ゴーリキさんが好きか嫌いかおいといて、
その役の悩みや勇気や行動を、分離できるようにしよう。
この役者じゃなければ、もっと面白い話になったろうに、と。
ただ実際の所、ゴーリキさんがやった役は大抵酷くて、
彼女むけにデチューンされているのかと疑うぐらいである。
たとえば糞実写「ガッチャマン」の白鳥のジュンは、
どんな素晴らしい女優が演じても糞である。
実写版「あしたのジョー」の矢吹丈は、
ストーリーは良く出来ているが、役者が良くない。
つまり、配役の失敗であった。
これは役を演じきれない役者の責任であり、
その出演者に決定した人の責任である。
最終的には監督の責任だが、監督が決まる前に配役が決まっていることは、
ビジネスでは良くあることだ。
音楽とストーリーを分離できるか。
ためしに、音を出さずに映画を見てみるといい。
台詞の字幕は、出したほうがいいね。
たとえば、ナウシカは久石譲の音楽がなくても面白いストーリーだが、
ハウルは久石譲の音楽がないと詰まらない話なのがバレバレになる。
名作「プリティーウーマン」を、あの主題歌のかかる場面だけ、
ミュートで見てみよう。
あの高揚感はなくなり、
男と女が自分をさらけ出していく、
わりとドロドロした話なのだと気づくはずである。
色を分離してみよう。
たとえばビリーワイルダーの傑作、
「アパートの鍵、貸します」「情婦」「サンセット大通り」は、
モノクロ映画なのに、滅茶苦茶面白いストーリーである。
色はストーリーと必ずしも関係ない。
傑作「ローマの休日」に色は関係ない。
(実際の所、オードリーの魅力がなければちょっと辛いけど)
自作CMだけど、色で有名なクレラップCMを、
モノクロ画面で見てみよう。
(テレビモニタの彩度(鮮やかさ)を最低にすれば大抵モノクロになる)
少なくとも僕が担当した「ゆうやけ」編までのシリーズでは、
ストーリーが際立って面白いことが分かるだろう。
さらに、絵の強さ(美しさ、リッチさ)を分離してみよう。
ドラマ「風魔の小次郎」を最後まで見たまえ。
最初は深夜枠の画面の安さに閉口するだろう。
見たこともない役者の下手な芝居も辛いところもある。
しかし5話あたりから、そんなのどうでもよくなり、
むしろ心地いい感じになってくる。
ストーリーが面白いからである。
ストーリーが面白いということは、
「この先どうなるのだろう/次が見たい」となることであり、
爆笑したり泣いたり感動したりすることである。
最初は見知らぬ役者だったのに、
いつの間にか好きになったり肩入れしていることである。
映画やドラマの面白さは、
ストーリーが全てではない。
好きな役者にときめいたり、音楽に乗ったり、
凄い絵を楽しむことは、勿論ある。
ところがそれは、面白いストーリーの時にしか、
本当には面白くないことに気づくだろう。
好きな役者を見たいのだが、
詰まらないストーリーを見るときの苦痛を、
映画ドラマ好きならば、痛感するだろう。
映画ドラマの真の面白さは、ストーリーである。
映画ドラマは、ストーリーを楽しむためにある。
その他の要素は、盛り要素である。
ストーリーを分離する練習に、
オススメの方法がある。
「映画のあらすじを書く」という基礎練習だ。
1000字以内が今後使いやすい数字なので、これを基準とするといい。
映画のストーリーだけを抽出して書こう。
最初は上手くいかないかも知れないが、
段々慣れてくるだろう。
これを、100本やること。
名作を見てないから、名作を見るのとこれをセットでやろう。
週一本だと2年かかる。
土日必ずやっても1年かかる。
ちなみにプロであるところの、
フジテレビの新人ディレクターは、
最初の四月の一ヶ月で、100本をやらされたそうだ。
(二十年前に聞いた話だから、今は違うだろう。
現状を見てもそれは推測できる)
一日三本でも間に合わないが、8時間勤務を考えれば、
一日4本ペースなら何とかなるよね。
数をやるのには意味がある。
パターン抽出、という能力が人間にはあるからだ。
(実際、ディープラーニングのアルゴリズムは、
この人間のパターン抽出を数学的にシミュレーションしたものである。
アルファ碁は、30台のマシンを繋いで、
一日2000戦一ヶ月ぶんまわして、定石からパターン抽出したそうだ。
それに比べたら一日4本は、楽勝だな!)
数をやると、なんとなく見えてくるものがある。
ストーリーと、ストーリーじゃないものが、
なんとなく区別出来るようになってくる。
そうしたら、しめたものだ。
面白いもの、面白くないもの、
ストーリーの面白いもの、面白くないもの、
ストーリー以外の面白いもの、面白くないものを、
判別する目が出来る。
その目がなくて何年も過ごすのと、
その目で何年か映画ドラマを見続けるのは、
ストーリーへの感度がまるで違ってくる。
実際の所、あらすじを書く能力は、
今後脚本を書くための、あらゆる場面で出てくる。
100本?1000本やっても足りないよ。
あなたは、ストーリーのことを知りたいよね?
だったら、自分で、ストーリーを見る目を養おう。
ストーリーは目に見えない。
だから素人は目に見えるもの、
出演者や絵のことを論じる。
ストーリーは流れであり、終わったら消えてしまうものだ。
それを書き留めるものは、文章しかない。
(楽譜のようにいつか記号化したいなあと思っているが、
うまくいかないので、文章が今のところ最善手)
その文章のうち、短いのをあらすじというのだ。
さあ、あらすじを書きたまえ。
難しくないよ。
こないだあったことを、お母さんや友達に喋ることと、
同じだよ。
ただ、1000字以内で、しかも落ちまでちゃんと書く、
ってことをするだけでいい。
1000字であらすじを書く能力は、
東大クラスでも持っていない。
これは一種の特殊訓練である。
プロを目指す、最初の関門としてはなかなか最適な気がする。
ベストキッドのペンキ塗りのように、
いつの間にか君は「あらすじ使い」になっている筈だ。
そうすると、
三幕構成や主人公やどんでん返しや伏線や、
ログラインやターニングポイントや、
焦点やテーマなど、
一見難しいことも、スッと入るようになってくる。
100本ぐらい名作は見ておこう。俺は1000本は見てきた。
日本では昔から、
映画はスジ、シャシン、シバイの三つだ、と言われてきた。
脚本はそのうち、スジを作るものである。
2016年04月14日
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