それは、「経験」が目に見えないことに似ている。
あなたの経験を視覚化することは出来るか?
絵にかいてもいい。
ヒトコマでは無理だろう。
必ず何コマか必要で、
こういうことがあって、
こう思い、今はこう思っているとか、反省している、
とかでまとまって終わる筈である。
ストーリーは経験に似ている。
擬似体験という言葉がある。
何を体験するのか?
たとえばバーチャルセックスは、セックスの擬似体験だ。
いわゆるVR、ARのジャンルは、
ある特定の体験をさせることが目的の娯楽(または技術)である。
ストーリーは、何の擬似体験か?
人生の擬似体験だ。
人生というのは、何から何までを言えばいいのだろう。
僕はその定義を持たない。
作家によって、様々だと思う。
つまり、私たちは、私たちが、
人生だと思う一連の経験を、
擬似体験させる。
それがストーリーだ。
だからストーリーは目に見えない。
人生や経験が、目に見えないものと同じように。
素人は、目に見えるものだけで、
映画ドラマを論じてしまう。
あの役者がカッコイイ、あの服がステキ、
あのロケ地に行ってみたい。
誰と誰が出ている。
あのしぐさとかあの場面が良かった。
それは、ストーリーを論じたことにならない。
ストーリーの一部や、ストーリーですらない、
目に見えるものを切り取っただけである。
それは、体験や人生を、一部だけ切り取っても、
あまり意味がないことに似ている。
ストーリーは、一意の表現型を持たない。
同じストーリーを、いくらでも別の形に書くことが出来る。
映画があらすじで語ることが出来たり、
人によってあらすじの文章が違うのだが、
同じストーリーを表していると分かるのが、その証拠だ。
だから僕は法律用語がとても苦手である。
本来はストーリーや体験を語る日本語を、
定義に当てはめて使うからである。
むしろ、日本語を使わない数学の方が、
一意性があってスッキリするというものだ。
日本語は、とくに、格文法をもたないので、
同じ意味のことをどうにでも書くことが出来る、
世界で二つしかない言語のひとつだ。
だから、余計、ストーリーを表すには、
無限の表現がありえて、
つまり、私たち読み手は、
頭のなかに出てきた構造が同一かどうかで、
ストーリーの同一性を判断する。
決して見た目では、ストーリーの同一性は判定できない。
漫画「風魔の小次郎」を、絵は忠実に再現したアニメ「風魔の小次郎」よりも、
絵は全然違うし展開もキャラも異なるドラマ「風魔の小次郎」のほうが、
風魔らしいと言われるのは、
見た目はストーリーの同一性に関係ないからである。
ここまで理解すると、
じゃああらすじはどうやって書けば正解か、
ちっとも分からなくなるだろう。
そう思ったまま、100本も書けば分かってくる。
あなたの体験談として、ストーリーを語ればいいということに。
言うは易し、行うは難し。
分かることと出来ることは、全然違う。
世の中の脚本の教科書は、分かれば全部出来るかのように書いてある。
分かったって、出来るとは限らんよ。
ナンパ塾の教科書読んだら最強になれるか?
武術の奥義書読んだら、最強になれるか?
出来るやつに、なってください。
2016年04月14日
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