映画は視覚芸術のような気がするのだが、
実はストーリーを中心として、
視覚や聴覚が下位概念である。
スジ、シャシン、シバイであり、
別の順ではない。
ところで、スジは目をつぶって考えることが出来る。
難しく考えなくてもいい。
今日あった体験をお母さんに話すとき。
こないだの経験を誰かに話すとき。
あなたはその時のことを話す。
聞き手は、あなたの話から想像して、
(イメージが足りなければその都度聞いて)
「頭のなかに視覚的光景を再現する」。
それが、「話を聞く」ことの根本だ。
あなたは言葉や言い方や身ぶり手振りで、
視覚的光景を再現したり補足したりするが、
聞き手の目の前にあるのは、
その話の中の視覚そのものではなく、
話し手の姿や身ぶり手振りである。
つまり、話の視覚は、聞き手の頭のなかに、
再現画像として存在する。
たとえば小説。たとえば落語。たとえば漫才。
たとえばラジオドラマ。
たとえば読み聞かせ。
話の視覚要素は、なくても、
我々の頭のなかに、我々の想像力で、
再現されている。
つまり、話そのものに、視覚は必要ない。
僕はこれに自力で気づいたとき、衝撃的だった。
それまで、漫画、映画、テレビが大好きな、
視覚優位の見方をしてきたからだ。
そして、脚本を初めて書いたときから
(小学校三年ぐらい?)、
視覚がないことにずっと違和感があったのである。
ところが、話そのものは視覚を持たなくてよい、
ということに気づくと、
映画や漫画を、話そのものと、視覚的要素という、
二つの要素に分離できることに気づくのである。
これは、
脚本を実際に映画化する経験で理解することが出来るが、
素人には難しいから、写真でたとえてみよう。
たとえば、
「ある女の子が、ある男の子を好きだ」を示す写真を撮ってみよう。
どういう女の子がいいかな。
カワイイ系か、キレイ系か。
美人か、不細工か。
いくつぐらいか。
どういう服を着てるのか。持ち物や小物は。
どういう男子がいいかな。
爽やかイケメン?個性的?渋い感じのオッサン?
いくつぐらいか。年上、年下、同い年。
体格は、服装は。
場所は?シチュエーションは?
公園、渋谷、駅のホーム、会社、学校の校舎からグラウンドを見つめる。
時間帯や季節は?
冬の朝、夏祭り、春の花見、昼下がり、雨の日。
二人の関係性は?
片思い。先輩後輩。名前も知らない。恋人同士。
別れたけど女がまだ未練がある。不倫。
あるいは、女が幽霊だっていい。女が怪物でもロボットいい。
男が人形でもいい。
あるいは、二人を人形で表現することも出来るし、
動物同士で表現することもできる。
それこそ、シャシンの選択肢は無限にある。
構図は?
男ナメ女、二人のツーショット、二分割画面、
一人はバックショット、一人は全身で一人はアップ、
鏡越し、
などなど、沢山ある。
それこそ、シャシンの選択肢は無限にある。
しかし、どの無限の写真も、
「ある女の子が、ある男の子を好きだ」を示す写真
であることは変わりない。
これが、ストーリーである。
我々は、写真を見て、
このストーリーを理解する。
ストーリーは目で見たものに、
「ははあ、実はこうなのだな」と、
頭のなかで想像する中にあるのである。
これは、映画でも同じなのだ。
私たちは、見ている動画から、
「ははあ、実はこうなのだな」と、
ストーリーを抽出しながら見ている。
実際に写っている写真や動画以上に、
頭のなかにストーリーを構築しながら見ているのである。
つまり、今ある絵に、想像を重ね合わせて見ている。
前者がシャシン、後者がストーリー、すなわちスジなのである。
実際、映画は視覚でストーリーを示すから、
視覚で表せないストーリー(ここではあまり具体を考えない)は、
映画のストーリー向きではない。
だが、
視覚以外の何かが、そこにあることは確かで、
それは、目をつぶって感知することが出来るだろう。
映画のストーリーを理解するには、目をつぶれ。
逆説的ではあるが、そういうことである。
(実際には、見ないとストーリーが分からないが、
視覚とストーリーを分離できるようにせよということだ)
逆に、ストーリーを作るには、
目はいらない。
目をつぶって、ストーリーを作ることが出来る。
逆に、どんな女の子であるか、どんなシチュエーションであるかなんて、
「その女の子がその男の子を好きである」
というストーリーそのものにはさほど重要ではない。
僕は、ストーリーを中身、視覚的要素をガワと呼び、
このブログではガワに騙されず中身を見よ、
なんてよく言っていたりする。
逆に作るがわからすれば、
ガワなんていくらでも交換可能である。
(予算に比例するけれど)
ガワが貧弱でも、面白いストーリーを考えることが、
脚本家の一番大事な仕事だ。
僕は、プロデューサーとは、
そういう脚本を理解して、最大限ガワで盛れる人のことを言うと思うのだが、
現実はガワに騙される人ばかりで、寂しいかぎりである。
目をつぶって話をせよ。
目をつぶって話を聞け。
人類が日を囲んで獣退治の話をしてきたころから、
ストーリーはあり、
その本質は21世紀においても同じである。
2016年04月16日
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