2016年04月18日

名文は、最初と最後にあるだけでいい

脚本でも小説でもそうだけど、
「文章を書く」ということ自体に、構えてしまうことがある。
「名文を書かなければいけない」という、
プレッシャーを受けることがあるだろう。
そうやって書いたものは、気負いばかりで、
ぎくしゃくした描写にしかならない。

僕は名文を書くつもりでやるな、といつも思う。
名文は、長い長い文章のなかに、ひとつだけあればいいと考えている。

ラストである。


文章というのは、ラストが名文であれば、
あとは逆に名文であってはならない。

何が起こっているか、
その場をありありと思い浮かべられ、
その人の気持ちに迫真に迫ってさえいれば、
なんでもいいのである。

あなたの思想の素晴らしさや、
短く言って見せることや、
擬人法や反復法やその他教科書で習った技法の凝ったものなど、
いらない。

途中の文は、あなたの個性をなるべく消せ。

何が起こっているか、分かりやすくさせることだけに集中させるようにしろ。
むしろ、あなたは邪魔になる。
観客と、起きていることの結びつきを、最大にするように、
あなたは消えるのが理想だ。

あなたは余計なことをしないレポーターに徹していればよい。


そして話の大詰め。
問題が解決し、
観客が現実へと戻ろうとするその時。
全てを総括するような、名文を書きなさい。


短くて切れが良く、
これまでの事を全て含み、
今後どこかで引用したくなるような、
技巧を凝らした、
名文を。

実際のところ技巧は二の次で、短いのがいい。

それはト書きでも台詞でも、どちらでもいい。
(たとえばてんぐ探偵の妖怪「横文字」は、
「合点承知」という四文字熟語の名台詞で終わっている)



そして、出来れば、
冒頭が名文だとさらによい。

それは、まだ観客の心がざわざわしていて、
その世界で起こることに慣れていないからである。

出来ればラストと対になるような名文から始めて、
ラストに来たときに、
なるほど、この話はああ始まり、こう終わったのか、
という記憶のされ方がベストである。


そして当然だけれど、その名文は、
テーマに、何かしら関係している筈だ。


僕は「前口上」がとても好きだ。
風魔の前口上もとても良かった。
だからオープニングも毎回見たくなるようなものを作った。
(DVD鑑賞時でも飛ばさないオープニングって珍しいよね)

名文は気持ちいい。
耳に、口に、目に。
気持ちいいから、何度も触りたくなる。

名作を何度も見る理由は、
ラストの名文を深く楽しむ為である、といっても過言ではない。
その為の入り口をちょっとだけ見ようかなと思ったら、
ずるずると最後まで見ちゃった、
ということは良くある話だ。

それは、冒頭がラストを思わせる名文であり、
途中はそんなこと忘れるぐらいに起きてることに集中してしまい、
ラストに至って素晴らしい名文を鑑賞しているように、
作られているからである。



あなたがどれだけの名文の書き手かは分からないが、
名文を書かなければならないという、
余計なプレッシャーを受ける必要は全くない。
むしろそんなものは不要だ。

起こっていることに、集中出来るように、書きなさい。
余計な雑念や蘊蓄を傾けている暇があったら、
起こっていることに、集中出来るように、書きなさい。
その人の気持ちに、出来るだけ肉薄しなさい。

簡潔に、時に詳細に。


そして、最後まで書き、
これまでのまとめをしたい気分になったとき、
ほんの一息で言えるような、
短い文でまとめなさい。
凝らなくていい。
あなたの奥から出てきた素直な言葉でよい。

それは自動的に名文になるから、安心しなさい。


たとえば脚本添削スペシャル2016「ラリー・ザ・石焼き芋」なんて、
凝った名文なんてどこにもない。
ラストの「いーしやーきいもー」なんて、
これだけ見たら名文でもなんでもない。
ところがこれまでの文脈が、
その単純な言葉を、名文に変えるのである。
(これを思いつくのに時間がかかった)

名文とは、そのような仕組みだ。
文そのものは単純なのだが、
表す意味が深いのである。


文章のラストを短く締めると、
それまでの意味がそこに凝縮され、
勝手に名文に昇格するのである。



名作は、短文で締める。
覚えておくといい。
posted by おおおかとしひこ at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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