脚本でも小説でもそうだけど、
「文章を書く」ということ自体に、構えてしまうことがある。
「名文を書かなければいけない」という、
プレッシャーを受けることがあるだろう。
そうやって書いたものは、気負いばかりで、
ぎくしゃくした描写にしかならない。
僕は名文を書くつもりでやるな、といつも思う。
名文は、長い長い文章のなかに、ひとつだけあればいいと考えている。
ラストである。
文章というのは、ラストが名文であれば、
あとは逆に名文であってはならない。
何が起こっているか、
その場をありありと思い浮かべられ、
その人の気持ちに迫真に迫ってさえいれば、
なんでもいいのである。
あなたの思想の素晴らしさや、
短く言って見せることや、
擬人法や反復法やその他教科書で習った技法の凝ったものなど、
いらない。
途中の文は、あなたの個性をなるべく消せ。
何が起こっているか、分かりやすくさせることだけに集中させるようにしろ。
むしろ、あなたは邪魔になる。
観客と、起きていることの結びつきを、最大にするように、
あなたは消えるのが理想だ。
あなたは余計なことをしないレポーターに徹していればよい。
そして話の大詰め。
問題が解決し、
観客が現実へと戻ろうとするその時。
全てを総括するような、名文を書きなさい。
短くて切れが良く、
これまでの事を全て含み、
今後どこかで引用したくなるような、
技巧を凝らした、
名文を。
実際のところ技巧は二の次で、短いのがいい。
それはト書きでも台詞でも、どちらでもいい。
(たとえばてんぐ探偵の妖怪「横文字」は、
「合点承知」という四文字熟語の名台詞で終わっている)
そして、出来れば、
冒頭が名文だとさらによい。
それは、まだ観客の心がざわざわしていて、
その世界で起こることに慣れていないからである。
出来ればラストと対になるような名文から始めて、
ラストに来たときに、
なるほど、この話はああ始まり、こう終わったのか、
という記憶のされ方がベストである。
そして当然だけれど、その名文は、
テーマに、何かしら関係している筈だ。
僕は「前口上」がとても好きだ。
風魔の前口上もとても良かった。
だからオープニングも毎回見たくなるようなものを作った。
(DVD鑑賞時でも飛ばさないオープニングって珍しいよね)
名文は気持ちいい。
耳に、口に、目に。
気持ちいいから、何度も触りたくなる。
名作を何度も見る理由は、
ラストの名文を深く楽しむ為である、といっても過言ではない。
その為の入り口をちょっとだけ見ようかなと思ったら、
ずるずると最後まで見ちゃった、
ということは良くある話だ。
それは、冒頭がラストを思わせる名文であり、
途中はそんなこと忘れるぐらいに起きてることに集中してしまい、
ラストに至って素晴らしい名文を鑑賞しているように、
作られているからである。
あなたがどれだけの名文の書き手かは分からないが、
名文を書かなければならないという、
余計なプレッシャーを受ける必要は全くない。
むしろそんなものは不要だ。
起こっていることに、集中出来るように、書きなさい。
余計な雑念や蘊蓄を傾けている暇があったら、
起こっていることに、集中出来るように、書きなさい。
その人の気持ちに、出来るだけ肉薄しなさい。
簡潔に、時に詳細に。
そして、最後まで書き、
これまでのまとめをしたい気分になったとき、
ほんの一息で言えるような、
短い文でまとめなさい。
凝らなくていい。
あなたの奥から出てきた素直な言葉でよい。
それは自動的に名文になるから、安心しなさい。
たとえば脚本添削スペシャル2016「ラリー・ザ・石焼き芋」なんて、
凝った名文なんてどこにもない。
ラストの「いーしやーきいもー」なんて、
これだけ見たら名文でもなんでもない。
ところがこれまでの文脈が、
その単純な言葉を、名文に変えるのである。
(これを思いつくのに時間がかかった)
名文とは、そのような仕組みだ。
文そのものは単純なのだが、
表す意味が深いのである。
文章のラストを短く締めると、
それまでの意味がそこに凝縮され、
勝手に名文に昇格するのである。
名作は、短文で締める。
覚えておくといい。
2016年04月18日
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