2016年04月18日

理屈と感情

僕はやったことないので本当かどうか分からないが、
女の子を部屋に連れ込むには、
「俺んちでセックスしようぜ」とストレートに行くより、
「ペットを見に来ないか?」などの、
「他の人に言っても大丈夫な言い訳」を、
理屈として用意してあげるほうがいいそうだ。

(実際これをやったイケメンは知っているが、
ただしイケメンに限るかも知れない)

何が言いたいかというと、
理屈と感情が、バラバラなほうが効果的になる、
ということ。


僕は常々、プロットやらストーリー構造は理屈である、
などと言っている。

論理構造をもてとか、
他の選択肢があり得ないように追い込めとか、
先回りさせてみよとか。
プロットはストーリーの理屈である、なんてことも言ったかも知れない。

ところが、本当のところ、
それは、
「ペットを見に来る」レベルのことなのかも知れない。


たとえば、
我々は殺し合いを見たい。
それは社会的に抑圧されている。
だから、「正義が悪を討つ」という言い訳さえ与えれば、
どんな残虐な殺し合いを描いても、OKだ。

正義という理屈は、ペット、
殺し合いが、セックスである。

私たちは、実際のところ、獣である。
同時に、社会的な生き物でもある。

社会的な生き物は、理屈で生きている。
表面上の、といってもいい。
しかし実際のところ、我々は理屈の皮を被った獣である。

腹割って話そうぜとか、本音はどうだ、
というのは、社会的な生き物の皮を脱げ、
ということである。


私たちは、獣である。
獣を解放するための、理屈が欲しい。

イギリスの仮面舞踏会は、
そのような理屈で、乱交性欲を満たすための皮である。



実際のところ、理屈と感情は、別々のベクトルを向いている。

「学園を卑劣な手段で貶めようとするやつらを、
忍者が撃退する」という風魔の理屈は、
「忍術バトル、すなわち暴力が見たい」
という我々の感情の為の、別ベクトルである。

「強い善人であれ、ということを深く理解する」という理屈は、
「姫と騎士が結ばれて欲しい」という我々の感情の為の、
別ベクトルである。



何か見たいものがある。
それは我々の獣としての欲望だ。

それを、理屈で完膚なきまで、言い訳できるように作っておくのである。
我々は獣ではありませんよ、とあとで言えるように。


そういう風に、
プロットの理屈を考え、
実際の執筆では、感情むき出しにしていくとよい。


さて、ペットを見に行ったのにセックスしてしまった女子は、
世の中にどれくらいいるのだろうね。
なかなか教えてくれないよね。
posted by おおおかとしひこ at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック