僕はやったことないので本当かどうか分からないが、
女の子を部屋に連れ込むには、
「俺んちでセックスしようぜ」とストレートに行くより、
「ペットを見に来ないか?」などの、
「他の人に言っても大丈夫な言い訳」を、
理屈として用意してあげるほうがいいそうだ。
(実際これをやったイケメンは知っているが、
ただしイケメンに限るかも知れない)
何が言いたいかというと、
理屈と感情が、バラバラなほうが効果的になる、
ということ。
僕は常々、プロットやらストーリー構造は理屈である、
などと言っている。
論理構造をもてとか、
他の選択肢があり得ないように追い込めとか、
先回りさせてみよとか。
プロットはストーリーの理屈である、なんてことも言ったかも知れない。
ところが、本当のところ、
それは、
「ペットを見に来る」レベルのことなのかも知れない。
たとえば、
我々は殺し合いを見たい。
それは社会的に抑圧されている。
だから、「正義が悪を討つ」という言い訳さえ与えれば、
どんな残虐な殺し合いを描いても、OKだ。
正義という理屈は、ペット、
殺し合いが、セックスである。
私たちは、実際のところ、獣である。
同時に、社会的な生き物でもある。
社会的な生き物は、理屈で生きている。
表面上の、といってもいい。
しかし実際のところ、我々は理屈の皮を被った獣である。
腹割って話そうぜとか、本音はどうだ、
というのは、社会的な生き物の皮を脱げ、
ということである。
私たちは、獣である。
獣を解放するための、理屈が欲しい。
イギリスの仮面舞踏会は、
そのような理屈で、乱交性欲を満たすための皮である。
実際のところ、理屈と感情は、別々のベクトルを向いている。
「学園を卑劣な手段で貶めようとするやつらを、
忍者が撃退する」という風魔の理屈は、
「忍術バトル、すなわち暴力が見たい」
という我々の感情の為の、別ベクトルである。
「強い善人であれ、ということを深く理解する」という理屈は、
「姫と騎士が結ばれて欲しい」という我々の感情の為の、
別ベクトルである。
何か見たいものがある。
それは我々の獣としての欲望だ。
それを、理屈で完膚なきまで、言い訳できるように作っておくのである。
我々は獣ではありませんよ、とあとで言えるように。
そういう風に、
プロットの理屈を考え、
実際の執筆では、感情むき出しにしていくとよい。
さて、ペットを見に行ったのにセックスしてしまった女子は、
世の中にどれくらいいるのだろうね。
なかなか教えてくれないよね。
2016年04月18日
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