映画というものは、現実から何かを抽出したものである。
現実を食べやすいように切った料理でもある。
ビフォアサンライズは傑作だと思う。
それはラストにおいて。
同じくラスト(付近)において、唯一映画的台詞を吐いたこの作品は、
「同じことをした」という点において、映画ではない。
(以下ネタバレ)
この三時間近くの映像(映画とは呼ばない)のうち、
恐ろしく心に来るのは、
ラス前、息子が大学へいく為に家を出る日、
母の号泣である。
「もっと長いと思ってた」だ。
太い腕をさらし、老けた母を見るのは辛い。
泣くのはもっとだ。
その痛みは、人生とは何だろうと思わせるのは、
ものすごかった。
だがそれだけだ。
この三時間近くの映像は、
共感するかしないかでしか、見ることが出来ない。
俺たちの少年時代、
中高生時代と、似たようなことはアメリカでもあるのだなあ、
ということでしか、見ることが出来ない。
自分の母がしてくれたこととか、
凄く思い出す。
だがそれは、共感であり、感情移入ではない。
映画とは、感情移入でなければならない。
共感と感情移入の違いについては沢山議論しているので、
ここでは繰り返さない。
脚本とは、組み立てである。
ラストの母の台詞を言いたい為だったら、
冒頭の6才の時の台詞は関係ないではないか。
(当然、主人公のラストの台詞とも関係ない)
組み立てとは、その冒頭とラストと、クライマックスのそれを、
「関係あるようにする」ことである。
ビフォアサンライズのときは、
それが初めての手法だったから、
新鮮で驚かれた。
同じことを時間空間ともにスケールアップさせただけだ。
時は過ぎたなあ、しか感慨がない。
これは映画ではなく、セミドキュメンタリーである。
セミドキュメンタリーは、映画ではない。
もしこれを映画にするのなら、
冒頭とラストに、主人公の語りをナレーションで入れるとよいだろう。
どんな語りを?
冒頭「時間がどうやって過ぎるか、僕は知らない。
まだ経験していないからだ」
ラスト「これから過ぎて行く時間はどれくらいか分からない。
母が言ったように、思ったより短いのかも知れない。
今のぼくには、一瞬が流れて行くのは分かる」
ぐらいだろうか。
つまり、この映画は時間への我々の不思議な感覚を語る映画なのだと。
しかし、それを語るのに三時間近くは長すぎる。
逆に、六時間ぐらいあれば成立したかもだ。
人の人生をただ覗き見しても、
映画にしたことにはならない。
「それが、我々にとってなんの意味があったのか」が映画だ。
つまり、この三時間近くの映像には、
たいした意味がなかった。
(ビフォアサンライズにはあった。
若いゆえに取り返しのつかない、臆病な経験がある、
という青春映画である)
あの母が助演女優賞を取るのはわかる。
ただそれだけだ。
原題はボーイズフッド。
少年時代の意味、成長の意味、大人になることの意味。
これらを語れていないのは、
片手落ちだと思う。
それよりも、スタンドバイミーや、少年時代のほうが、
余程心に来る。
つまり、リチャード・リンクレイターは、
まだ(自分の/誰かの)少年時代を総括出来てないのではないかな。
あった出来事はリアルだけど、
それが意味にまで凝縮されていない。
2016年04月21日
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