2016年04月21日

ドキュメンタリーは映画ではない(6才のボクが、大人になるまで批評)

映画というものは、現実から何かを抽出したものである。
現実を食べやすいように切った料理でもある。

ビフォアサンライズは傑作だと思う。
それはラストにおいて。

同じくラスト(付近)において、唯一映画的台詞を吐いたこの作品は、
「同じことをした」という点において、映画ではない。

(以下ネタバレ)



この三時間近くの映像(映画とは呼ばない)のうち、
恐ろしく心に来るのは、
ラス前、息子が大学へいく為に家を出る日、
母の号泣である。
「もっと長いと思ってた」だ。

太い腕をさらし、老けた母を見るのは辛い。
泣くのはもっとだ。
その痛みは、人生とは何だろうと思わせるのは、
ものすごかった。

だがそれだけだ。


この三時間近くの映像は、
共感するかしないかでしか、見ることが出来ない。

俺たちの少年時代、
中高生時代と、似たようなことはアメリカでもあるのだなあ、
ということでしか、見ることが出来ない。
自分の母がしてくれたこととか、
凄く思い出す。

だがそれは、共感であり、感情移入ではない。



映画とは、感情移入でなければならない。
共感と感情移入の違いについては沢山議論しているので、
ここでは繰り返さない。

脚本とは、組み立てである。

ラストの母の台詞を言いたい為だったら、
冒頭の6才の時の台詞は関係ないではないか。
(当然、主人公のラストの台詞とも関係ない)

組み立てとは、その冒頭とラストと、クライマックスのそれを、
「関係あるようにする」ことである。


ビフォアサンライズのときは、
それが初めての手法だったから、
新鮮で驚かれた。
同じことを時間空間ともにスケールアップさせただけだ。

時は過ぎたなあ、しか感慨がない。

これは映画ではなく、セミドキュメンタリーである。
セミドキュメンタリーは、映画ではない。

もしこれを映画にするのなら、
冒頭とラストに、主人公の語りをナレーションで入れるとよいだろう。

どんな語りを?

冒頭「時間がどうやって過ぎるか、僕は知らない。
まだ経験していないからだ」
ラスト「これから過ぎて行く時間はどれくらいか分からない。
母が言ったように、思ったより短いのかも知れない。
今のぼくには、一瞬が流れて行くのは分かる」

ぐらいだろうか。
つまり、この映画は時間への我々の不思議な感覚を語る映画なのだと。

しかし、それを語るのに三時間近くは長すぎる。
逆に、六時間ぐらいあれば成立したかもだ。




人の人生をただ覗き見しても、
映画にしたことにはならない。
「それが、我々にとってなんの意味があったのか」が映画だ。

つまり、この三時間近くの映像には、
たいした意味がなかった。

(ビフォアサンライズにはあった。
若いゆえに取り返しのつかない、臆病な経験がある、
という青春映画である)

あの母が助演女優賞を取るのはわかる。
ただそれだけだ。


原題はボーイズフッド。
少年時代の意味、成長の意味、大人になることの意味。
これらを語れていないのは、
片手落ちだと思う。

それよりも、スタンドバイミーや、少年時代のほうが、
余程心に来る。


つまり、リチャード・リンクレイターは、
まだ(自分の/誰かの)少年時代を総括出来てないのではないかな。

あった出来事はリアルだけど、
それが意味にまで凝縮されていない。
posted by おおおかとしひこ at 03:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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