2016年04月24日

共感を考えるから、誤る

共感ではなく、感情移入。

それに関しては過去記事に詳しいが、
共感しか考えられず、間違う例を。


たとえばこんな感じ。

○ハッピーな場面ばかり描き、人死にや辛い場面を避ける。
 またその逆で、辛い場面ばかり書いて、ハッピーを避ける:

○共感できるものさがし:

○何の取り柄もない高校生が、何故かラッキーなことに:

○主人公の設定があればあるほどのめり込めない:

○自分が強く共感するシチュエーション、台詞、設定などを変更できない:


ひとつひとつ論破していく。



○ハッピーな場面ばかり描き、人死にや辛い場面を避ける。
 またその逆で、辛い場面ばかり書いて、ハッピーを避ける:

その場面の波動に共感しているだけだから、間違いだ。
「幸せな場面を書けば私もみんなも幸せになれるから、
そういう場面ばかり書いて、みんなハッピーになれる」
考え方は、物語においては間違いである。

たとえばCMなどの短いものなら、こういうのはよくある。
古いけど「I feel coke」を例にとろう。

明るい海岸や素敵な場所で、美男美女が楽しそうにキャッキャする。
さわやかな絵と音楽で繋ぎ、コーラを飲む。
コーラCMの王道であり、
「こういう雰囲気こそコーラのイメージである」
ということを強く訴える、いわゆるイメージCMだ。
これに共感する人が大量発生し、
80年代のコーラのCMはずっとこれだった。

イメージとしては強烈だが、それだけだ。
このCMにはストーリー性がない。

じゃあストーリーって何だろう。
変化である。
シチュエーションが変わってもハッピーばかりでは、変化ではない。

人生には辛いことや酷いこともあり、ハッピーもある。
それらの変化を描くことだ。
そして、辛いことを幸福へと自ら変えることが、
映画的なストーリーだ。
勝手に幸福になるのはダメだ。
自分で勝ち取らなくては意味がない。
何故なら、幸福は与えられるものではないからだ。
口を開けて待っている奴に幸福は訪れない。
天は自ら助く者を助く。

(そういう意味で、ハリウッド映画は、
キリスト教の教義の影響を強く受けているといえる。
一方仏教の影響下の日本では、
阿弥陀如来という絶対他力に救われるから、
どうでもいいやというメアリースーや、
悪人正機説の影響下で、
ワルの方がベビーフェイスよりキャラ的に深い、
などが横行している気はするね)


コーラのCMは、「自力で幸せを勝ち取るなんて、
そんな面倒なことしなくていいのさ」という、実は悪魔の誘惑である。
100円(当時)払えばハッピーになれる、
という、金銭との交換で成立する、それは堕落の広告戦略であった。

さて、心地よいハッピーだけを描くのは、
そのような思考停止である。
ハッピーだけでいたい、辛いことから逃げたいのは、
人間の本能だ。
(コーラのCMはそれを利用した、麻薬である)

だが、あなたが保護されている子供でない限り、
世の中には暴力も死も病気も、酷い人も愚かさも存在する。
(サイバラ的に言えば、世間は私立じゃない)
その現実に対して、どう立ち向かいどう幸福を得るのかが、
ざっくり言うと映画のストーリーなのだ。

たとえば暴力に晒された時に、笑ったってダメだ。
逃げたり、暴力でねじ伏せたり、あるいは互いに幸福になる道を模索したり、
状況に応じて様々な対処をしなければならない。

ストーリー(ハッピーエンドの場合)とは、
その幸福へ工夫して上り詰める様を描くものである。

だから、状況も、心のなかも、受ける印象も、意味も、
全てが刻々と変化していく。
そして、頭から最後まで通したとき、大事なことがひとつだけ残る(テーマ)。
それがストーリーだ。

ただハッピーな場面だけ繋いでも、それはストーリーに似た別のものだ。

たとえばカッコイイバンドのただカッコイイ映像。
たとえば素敵なアイドルの素敵な映像。
これらは映像による共感を狙ったものであり、ストーリーではない。

ストーリーとは変化だ。
ハッピーもあれば、辛い場面もある。
辛い場面から逃げたら、真の幸福など描けない。
むしろ、真の幸福には辛い場面が必要なのである。

ラノベなどには、「人が死ぬ描写はありません」なんて注記があるそうだ。
お前らどんだけ弱いんだよ。保護された子供のものだろ。

「いけちゃんとぼく」の暴力描写が、
時折酷いと言われる。
僕はそうは思わない。
容赦のない地獄からの脱出を描いたストーリーたからだ。

ハッピーな場面だけ欲しければ、ストーリーなぞ観ずに、
砂糖でも舐めてろ。


同様に、辛い場面ばかりを書く人もいる。
ダークファンタジーを間違えた人だ。
人が幸福になるのは許せないなんて、
個人的恨みの共感の場になりがちだ。
それも真逆の意味で、ストーリーではない。
(たとえば「百万円と苦虫女」のラストは、
監督が「この女が幸せになるのが嫌だから」という理由で、
バッドエンドになった。あそこでハッピーエンドになるのも、
映画として凡作だから、結果的に賢明な判断ではあった。
だが、共感できないから変更した、という、
感情移入によるストーリーとは違う理由で、ラストが決められたのである)


感情移入というものは、
共感できない人にも起こる。
「私はハッピーに共感したい」という人に対しても、なお、
不幸や辛い目に会っている人を出して、
その人の不幸に感情移入させて、
その人が幸福を勝ち取る様に、涙を流させることを言う。
「私はハッピーに共感したい」と当初言っていたことなど、
とっくに忘れさせて満足させることが、
ストーリーの力であり、役割なのだ。

共感を求める人に共感を提出しているのは、
ただの舐め合いだ。
それをスイーツという。
(多くの少女漫画の映画化はスイーツであるので、僕は大嫌いだ)

J-POPは共感しか求めなくなって、マーケットが縮小した。
そりゃセグメントばっかりしていったら、どんどんパイは小さくなるわな。


最近、他人が怒られているのを見るだけで、
自分も縮こまり、恐怖を覚える若者が増えているのだそうだ。
共感能力は高いかもしれないが、場面によってオフできないと、
幸せを掴み取るような危険な戦場へ、行く資格はないと思う。
僕は昭和育ちで、戦前世代から、戦争を知らない(ぬるい)子供たちと言われた。
その僕から見ても、それはぬるいと思う。



○共感できるものさがし:

共感できるものばかり、部屋で埋める。それは快である。
共感できないものがあると、不快である。

しかしそれは、共感できる人しか呼ばなくなる。

あなたが新興宗教の人間ならばそれも良いが、
映画というのは、もっと、何千万人もの人を同時に感動させることである。
あなたのまわりの何千人の共感だけを取りに行っても、
しょうがないと考えるべきだ。


○何の取り柄もない高校生が、何故かラッキーなことに:

主人公は、自分ではない。
三人称型では他人のことである。
何の取り柄もない高校生は、スクランブル交差点では背景だ。
スクランブル交差点で最も目立つ人、
注目を集める他人を、主人公にしよう。

あなた自身がその主人公に共感してはいけない。
あなたが共感できない人を主人公にし、
あなたが感情移入できるように作らなければならない。

あなた自身が共感する主人公なんて、たいていメアリースーになる。



○主人公の設定があればあるほどのめり込めない:

これも上と同じ議論なのだが、
設定がないほうが自分を投影しやすいから、
設定は邪魔だという理屈だ。
それは共感には邪魔だろう。
主人公が白紙であればあるほど、非共感のノイズが少ないからだ。
(それを極端に狙ったのが、「ドラクエの主人公は台詞を言わない」だ)
だが、それは共感狙いに限る。

たとえ共感できない設定だとしても、
その設定を生かしてドラマを続けているうちに、
その設定にのめりこみ、感情移入してしまうのが、
よく出来た物語である。
(例:ドラマ風魔。
あなたは裸学ランに共感できないだろうし、
蜂の巣を木刀で叩く男にも、女装する男にも共感しないはずだ)



○自分が強く共感するシチュエーション、台詞、設定などを変更できない:

これはリライトのとき、自分の首を絞める。
共感とはお気に入りのことだからだ。

ストーリー上変更しなければならないのに、
あなたの心の奥底が強く拒否するなら、
感情移入ではなく、共感でものを書いてるのではないか、と疑ってみよう。
その共感をはずして、感情移入だけで作り直したとき、
ようやくそのストーリーは感情移入を獲得するかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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