2016年04月25日

興行と作品性4

つまり、宣伝のやるべきことは、
「このコンテンツにお金を払うと、
どういう類いの満足感が得られそうか」
ということを、ネタバレすることなく、
予告することである。

今、そこが浅い理解で動いているから、
映画の中身も、予告も、宣伝も、
ペラペラになりつつある。


芸能人を見に行くこと。
その芸能人が凄い衣装を着たり、大変なロケをしたこと。
その芸能人が、本物と見紛うような、凄い芝居をしたこと。

その世界観を見に行くこと。
美術セットやロケーションや小物や音楽や衣装などで作られた、
「現在とは別の世界」を楽しむこと。

お金がかかっているので、見る価値があるということ。

迫力のある映像、怖い映像など、
一瞬で消費される映像。

これらは、全て、ペラペラのガワの話だ。


人は、映画を「見る」という。
視覚的に「見る」だけなら、上のものを見に行くことになる。
しかし実際には、
人は映画を見ることで、「話を聞きに」来るのである。

落語は見るとは言わない。
見るものが高座の人と表情と仕草ぐらいしかないので、
見るものとしての価値は、
話の内容に比べれば微々たるものである。

落語は話を聞くものである。
なんなら、音声だけの落語(古くはレコードやテープ、
最近ではmp4やらポッドキャストやら)
だってあるぐらいだ。


もし映画に、話がないのだとしたらどうだ?

ペプシ桃太郎は、あれで終わりだ。
長い一本の満足する話の一部に見えているが、
そんなものはない。
あれで終わりだ。

あんな感じが二時間続いたら、切れるよね。

おそらく、
映像が話がなくても成立するのは、
3分から5分だと思われる。
アイドルのPVとかは、僕は二サビまで持たずに飽きる。




下手くそな宣伝というのは、
「映画は話を聞きに来るもの」という前提を、
理解していないように思う。

それは「○○が見所」とか「○○を見てください」とかの、
言葉に現れている。
「芝居を見る」という言葉は、
目をひんむいて大声を出すような、
凄い表情を見に行くことに、意識を集中させる結果になる。
本当の芝居とは、ストーリーを楽しませる為にある。
ストーリーから遊離して、表情だけを目立たせるのは、
下の下の芝居だ。
つまり、「見る」という言葉に、意識が縛られているのだな。
言霊だ。

僕はあえて、「聞く」という言霊を使った。
「聞き入る」でもいい。
それが終わったあとに来るのは、
「成程と思う」「感心する」「感銘を受ける」
「腹に落ちる」「膝を打つ」
「いてもたってもいられなくなる」
「影響を受ける」「スタンディングオベーション」などだろう。
勿論、
「くそつまんなかった」「落ち酷い」「微妙」
「回収しきれてない」「不満だらけ」
「納得できない」「ブーイング」などもある。

これらは、「見る」ことから生まれる行動ではない。
見ることは一瞬で、いいか悪いかはすぐに結論が出るが、
ここまで人を動かす力はない。

人を動かすのは、「話を最後まで聞くこと」しかない。



宣伝がペラペラなのは、
映画を「見る」ものに限定しているからではないか?
「話を聞く」ものとして扱わないからではないか?

角川宣伝部に言われたのは、
「宣伝しやすい脚本にしてください」ということ。
何を言われているのか当時は分からなかったが、
視覚的な宣伝材料が欲しい、ということだったと、
今なら分かる。
だっていけちゃんのCG、俺のOKが出るまで待たずに、
「今できてる奴だけ下さい」って指示が来て、
そこにある奴だけ宣伝に使われたんだぜ?
普通、「○日までに宣伝材料に使う素材の絞めがあるので、
それまでに宣伝材料用のCGからやってくれませんか」でしょ?
だから宣伝材料に使われたいけちゃんのCGは、
メインに使うタイトルバックのいけちゃんじゃなく、
静止しているから作りやすかった奴ばっかりだ。
(嬉しいと増える、という原作にあったやつはやりたかったが、
増えるCGが難しいのでカットした。宣伝材料的には、
こういうのこそ欲しかったろうに!)

で、そもそも、「CGを見に来る」わけないよね?
「子供が大人になる時」(とそのあとのどんでん)を、
見に来る(そういう話を聞きに来る)んだよね?



ということで、
「見る」縛りの宣伝は、馬鹿の所業である。


人は、見世物を見に来る。
エロ、グロ、ナンセンス。
しかし、その辺の見るだけの見世物ならば、
ネットに沢山転がっている。

人は、映画を見に来るのではない。
話を聞きに来るのだ。


僕は前から、
予告編は、
一幕をうまくダイジェストし、
興味あるセンタークエスチョンを提示し、
見世物要素(お楽しみポイント)を上手く見せて期待を煽れ、
と言っている。
センタークエスチョンを提示できれば、
テーマはおのずと明らかになるからである。

止めはキャッチコピーだ。
その文章が、記憶を助ける。
「それは、どういう話っぽいか」をだ。


ジャンルや見世物の種類を示す(たとえば学園忍者アクション)
のは、ボディコピー、つまり二次的なコピーであるべきで、
本コピーであるべきではない。

ドラマ「風魔の小次郎」は、
「学園忍者アクション」を見て、
「アイツの周りにゃ、希望という名の風が吹く」話を聞きに来るものである。

映画「いけちゃんとぼく」は、
「子供とお化けのCG(声は蒼井優)」「高知の美しい空と海」を見て、
「わたしね、きみが大人になる日を見に来たの」という話を聞きに来るものだ。

どちらの宣伝にも、僕は関われず、
大変不満であった。
宣伝は宣伝のプロがやりますから、と説得されたが、
じゃあ興行的惨敗の責任は宣伝部が取れよな?
俺の作品は、見れば大変満足度が高い。それは数字にも出ている。
宣伝のやり方が非常に悪いと思っている。
ということで、てんぐ探偵はちゃんとやりたい。



ところで。

テラフォーマーズのキャッチコピー:「俺がやる。」
ボディコピー:「人類vsテラフォーマー。絶対分かり合えない奴がいる。」

なんのことかサッパリ分からない。
「火星にいた、進化したゴキブリ。」でいいんじゃないの?
ボディコピーは、
「奴等に対抗する手段は、虫化手術だった。
今、3000匹のテラフォーマーズを前に、15人の虫化手術をした若者たちが挑む!
生き残るのは、どちらか?」
あたりでいいんじゃないの?(数字は適当)

(勿論、原作にない、素晴らしいテーマが脚本で書かれている可能性はある。
予告を見る限り、若者たちは騙されたっぽい。
となると、裏切りとか騙しとかの、非常に映画的なモチーフが絡んでくる。
しかしそれを俺は見てないので、今はコピーが書けない)

くそ映画を作ってしまったので、
責任とりたくない宣伝部が、
当たり障りのないキャッチコピーつけて、仕事しましたよ、
という体にも見えるし、
何もかも分かってないボンクラにも見える。


作品性の本質を決めるのは何か。
芸能人でも世界観でも3Dでもない。

脚本、すなわちストーリーである。

その本質を見極める、目も耳も、頭も、
それを上手く表現する口も手もないのだとしたら、
それは一体プロと言えるのかね?
posted by おおおかとしひこ at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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