仮説。
小説を大分書いてみて分かったことは、
地の文を、口に出してみたほうがいいことである。
かつて僕は、
地の文は目で見るのだから、
目で見て分かりさえすれば、
意味を正確に取れた方がいいだろうと、
詰め込みまくっていた。
どうやらそうじゃないと、最近勘で分かってきた。
目で見る文だろうが、
口にしやすい文にするべきだと。
それは何故か。
思考は、音声だからだと考える。
あなたは、目だけで意味を取れるだろうか?
思考は声なしで可能か?
リアルな声ではないにせよ、
何かしらの声のようなもので、
思考しているのではないか?
その代表的なものは、独り言だ。
つまり、独り言を言うように、思考していないか?
音にして出せば独り言、
出さなければ思考、ぐらいの違いしかないのではないか?
直感的な理解なので、
脳科学的な根拠はない。
音読は、ある意味正しい。
口のスピードで理解するからである。
(予測だが、思考で聞こえる声は、
口で出すよりは速い)
勿論、言葉を介さない思考はある。
数学の形式的な展開などはそれだと思う。
(実際、形式的には正しい展開でも、
思考的に意味を取れない物理方程式もある。
いまだにコペンハーゲン解釈は納得いかない)
反射のようなものもある。九九とか。
今問題にしているのは、
数学ではなく物語なので、とりあえずこの話は置いておく。
映画は絵で見るもので、
絵のことはト書きで書く。
しかし、その言葉すら、
口にしやすいかどうかで、書くべきだと思う。
口にしやすい文章は、説明として明晰な気がする。
そもそも、口にしにくい文章は、
説明が下手だとすら、僕は思う。
ブログをずっと口語的に書いてるからかな?
反論があれば聞いてみたい。
結局、今てんぐ探偵を全部書き直しているのだが、
口にしやすい文章ほど面白くなったので、
全部をそういう方針で書き直している。
良かれと思って説明を沢山つけたところも、
バッサリ切って、全面的に口にしやすいかどうかで、書き直した。
それがとても上手くいったと思ったので、
これを書いてみた次第。
目をつぶっている相手に、
ト書きや地の文を聞かせて、
ありありと分かるように書け。
我々の思考は、(おそらく)
目より、口と耳の関係に近い。
2016年04月26日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック