2016年04月26日

冒頭と落ちの構造

これまでに何度か議論しているが、
落ちというものは冒頭と関係することで初めて成立する。

冒頭と係り結んで落ちになるのが、いい落ちだ。
切れてない落ちは、途中の何かと係り結んで落ちになってしまい、中途半端に終わる。
(たとえば、落語の「まんじゅう怖い」の落ち、
「今度は濃いお茶が怖い」は、
冒頭の「世の中に怖いものなどないと嘯く男」と関係しているから成立している。
「あれは嘘だろ」と皆が思うところから話がスタートするからである。
逆に、落ちに関係する別の冒頭をつくることも出来る。
たとえば、「これは静岡の話であり、
新茶は庶民には手が出にくい高価なものである」と冒頭に一行あれば、
「今度は新茶が怖い」と落とせるだろう。
勿論、この両バージョンではテーマは同一ではない)


さて、この冒頭-落ち構造は、小ブロックでも機能する。



一番大外の構造として、
冒頭と落ちは係り結びの関係にあるべきである。

そうでないと、落ちた気にならないからだ。


これは、小ブロックでも同じだ。
シークエンスや、下手したらシーン単位でもあり得るかも知れない。

ブロックの冒頭で振られたことが、
ブロックの終わりで落ちていること。

10分程度ではそんな構造はないかも知れないが、
もっと長いものならそのようなシークエンス単位の構造があり得る。
分かりやすいのは、章立てされた小説だろう。
ある章の冒頭は、その章の落ちの前ふりになっているはずだ。

「(最初に)前ふられたことが、事態の終結とともに終結して、
それまで全ての意味が確定すること」を、
落ちの仮の定義としよう。


その小ブロックが終結しても、
全体は終結したわけではないから、
話はつづく。
で、次の小ブロックの終結に必要なものを前ふるところから、
次がはじまる。
以下ループ。

そしてあとひとつの心配事(焦点)をクリアすれば終結する、
という予感(第二ターニングポイント。長編では、
偽の第二ターニングポイントを置いて、
ごまかしごまかし引き伸ばす)を経て、
終結をし(クライマックス)、
全てがはじまりから終わりという構造になり、
落ちになる。


ここで気をつけることは、
冒頭部は、
全体での冒頭でなければならないことと、
第一ブロックの冒頭を兼ねなければならないということである。

これを両立させることがとても難しいから、
冒頭は難しいと言われ、
リライトで一番直しが入り、
本質が問われるのだ。


ファイアパンチを見ていて思うことは、
全体での冒頭の機能は果たしていても、
小ブロックの冒頭を果たしていないことである。
二話を経て、まだ話が始まっていない感じがするのは、
そういうことである。
三話で始まらなきゃ、切りだな。
(ところで、漫画においても、
一話の食いつきから単純に減衰していく興行曲線があるのだろうか?
読者はどんどん減っていくのかな。それとも盛り上がれば増えて来るのだろうか。
ネットでてんぐ探偵を連載していたときは、
やはり巻を追うごとにアクセスは減衰していった。
ここら辺に興行と広告の秘密があるような気がしている)


冒頭と落ちは、関係している。
そして小ブロックにおいても、そのような構造になっている。
それが面白い話、切れのある話の構造である。
posted by おおおかとしひこ at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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