全ての文学は、この為にある。
言葉に出来るなら、言葉にすればいい。
しかし日本語の全てを使っても表現できない、
いわく言いがたい感情こそが、
物語の存在意義なのだ。
下手くそな人は、
何もかも説明する。
大抵は日本語が下手だから、
「○○があって、○○があって、
楽しかったです」
と、小学校の作文と大して変わらないものを書く。
最後の「楽しかった」の部分が感情である。
日本語が達者になってくると、
もっと複雑な言葉で表現できるようになる。
「もののあはれ」という言葉を知ったり、
「あの夏はこの時だけだった」という表現法を知ったり、
「楽しさの中に、哀しみが混じっていた」という複雑さを使ったり。
さらに日本語が達者になってくると、
「生涯これを越えることはないだろう」とか、
「せつない以上の感情」などのように、
「書かれていることの補集合」として表現を使えるようになる。
言葉は、全てを指し示すことは出来ない。
だから、ここまでは言葉で指し示せるので、
そこじゃないところを差す、というやり方だ。
さらに上達すると、
「あいしてる」なんて簡単な言葉で、
全てを含むように言い表したりする。
映画「いけちゃんとぼく」の、いけちゃんの気持ちは、
そうとしか表せない、とてもいろんなことを含んでいた。
鴨ちゃんへのサイバラの思いなどの、
現実にあったことも僕はそこに含んだつもりだ。
また、皮肉ということも使えるようになる。
言っている言葉で逆の意味を示すことだ。
「かわいいー(ブスに対して持ち物をほめる)」とか、
「更に一考したほうがいいと思います(詰まらないので却下)」とか。
ここまでは、ある程度日本語で物語を書くのならたどり着く。
高校生ぐらいで使える人もいるし、
大人になってようやく全部出来るようになった人もいるだろう。
勿論、全部を使えない人もいるだろう。
ここからが難しい。
言葉にならない感情、あるいは、
言葉で説明すると何行にもなってしまう複雑な感情を、
「無言で示す」こと。
最近の僕の仕事で言えば、
NHKの「娘の出て行った部屋」か。
(制作の流れは「プロの現場から」という一連の記事でまとめてあります)
ラス前、母の「そうね」と相槌を打ったあとの、
なんとも言えない無言の間。
この感情こそ、この物語の描く主題(モチーフ)だ。
言葉で書けば、
「娘が成長して出ていったことは、
誇るべきであり、嬉しいことであるが、寂しいことでもある。
最早彼女は東京で自由に羽ばたく小鳥のようであり、
巣立ってしまった。
しかし小鳥なのでたまには母を頼ってきて、
その時だけ子供のふりをしたりする(ふりなのか無意識なのか)。
母親としてもうしてやれることはないのだろうか。
正月や盆にしか会えず、これから彼女の人生と、
どんどん離れていくのだろうか。
あと、娘に私が出来ることは、どれくらいあるのだろうか」
というようなことだろうか。
こう思ってしまう、具体的な話を描いたうえで、
ふと遠くを見て、無言になる瞬間を描き、
こういう「言葉にならない感情」を、味あわせるのである。
(CM的に言えば、こういう感情を抱かせて、
受信料の家族割引は半額だから、親が払ってもいいんですよ、
というニュースに繋ぐのである)
解説すれば言葉をこのように尽くさなければならないが、
私たちは、この程度の情報量を、
60秒から受けとることが出来る。
先日後輩が、感じのいい話が書けないので見てくださいと、
コンテを持ってきた。
それは小学校の作文のように、
拙い言葉で表現された感情が、
そのまま書かれた表現だった。
バカかと。
書かれない感情を、書いたものから表現するのが、文学である。
書いてないことがメインだと、分かっていない。
神は姿を現さない。
姿のない所に神を見る。
言葉にならない感情は、言葉にではなく、
そこから生まれた、私たちとその主人公の中にある。
これを味わうのに格好の素材は、
「ビフォアサンライズ/恋人までのディスタンス」だ。
リチャードリンクレイターはこれしか傑作がないような気もするが。
ラストの夜明け、誰もいない町の沢山のカット。
電車に乗って、徹夜明けのままずっと昨日のことを考える二人。
この言葉にならない感情こそ、この映画の神髄である。
この感情を言葉で書いたら野暮になる。
15行ぐらいで書くことも出来るかも知れないが。
さらに日本語が達者になってくると、
もっと簡単なことで深いことが書けるようになるのかも知れない。
剣の達人がひとふりするだけ、みたいな。
僕はその境地には、まだ達していないけど。
その、言葉にならない感情は、どういう感じだろうか。
そこに至るように物語を組み立てよう。
騒いで騒いで、ふと主人公が客観的になったとき、
そういう感情になると思うよ。
(僕が「地下鉄のザジ」を素晴らしいと思うのは、
ラストショットの台詞だ。それこそがこの映画の神髄である。
それまでの空騒ぎは、最初は面白いが飽きてくる。
このまま駄作入りかと思ったあとでの、あのラストショットには痺れる。
あるいは、「アニーホール」での、
「僕をメンバーに入れるようなクラブに、僕は入りたくない」という、
冒頭でもラストでも繰り返される言葉が凄くいいと思う。
疎外感とか、自己否定とか、こじれた自己とか、青春の自意識とか、
言葉にするとそういう感じのものがガッと入っている、素晴らしい逆説だと思う)
たとえばドラマ風魔で、小次郎がふと覚めてる瞬間があるのを、
あなたは気づいただろうか。
小次郎は自分なりにものを考えていて、
ある時、それを言葉にしようと努力していたりする。
自問自答の末、彼がやったことは、
「人でも忍びでもあろうとすること」と、
竜魔がまとめたけれど、
もっと広くて深い、言葉にならない感情があったよね。
言葉による物語は、
言葉で表現できるもので、
言葉にならない感情を、最終的に描くのだ。
謎かけみたいになってきたけど、
ニュアンスは分かるかと。
2016年04月27日
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