2016年04月28日

何故だめな邦題が作られるのか

コピーのセンスに優れた人が、
配給元にいなくなったから、
という見も蓋もないのは置いといて。


主題のはっきりとした映画がそもそもなくなったから。

微妙な出来のものを、邦題で売るやり方がなくなってきたから。

二番目のものをもう少し掘ってみる。



映画というものは、
我々のたいして面白くない日常から、
ふわりと別世界に連れてってくれる、魔法のようなものでありたい。
ところが、現実に夢があんまり持てなくなってきたのではないだろうか。

高度成長期から2000年代くらいまでは、
日本は拡大成長していく感覚だったから、
夢を持てた。
だからドリームの持ち方も色々あって、
邦題はそれに乗っかれば素敵に見えたような気がする。

2010年前後、リーマンショックから東日本震災あたりから、
どうも日本ヤバイが当たり前になってきて、
夢の持ち方が変わってきた気がする。
(現実は、映画のターニングポイントのように、
明確にターニングポイントを持たない)

だからいつの間にか、
安直に夢を持ち得ない時代になったのではないだろうか。
それが邦題が夢を持てないことと関係している気がする。


元々英語の題は、ソリッドなものが多い。
それを邦題関係者が夢を持てるように頑張ってきた歴史があるような気がする。
Something like hotをお熱いのがお好きと訳すのは、
かなり腕がいると思う。
その上等なノリが、映画の夢を決めていたと思う。


僕は、安直なカタカナ邦題を否定する。
何を言っているか分からない、
霧に巻くか、ソリッドなものをそのまま出しているかの二択でしかないからだ。

The Martianを、オデッセイにしたことの理由は、
大きくは分からないではない。
ホメロスのオデッセイアを知っていることが、
そのような教養を持つことが、
かつてドリームとされた時代があったからだ。
しかし、今それは通用しないし、
そもそもそういう売り方をして、
日本人全体に夢を売れるとは思えない。

火星救出作戦
静寂なる火星より
火星生存者アリ
火星からの帰還
7ヶ月距離の孤独
サバイバル・オン・マーズ
赤い星の生存者
赤い星から


それなりにSFをたしなむ人、宇宙の知識のある人も、
夢を持てるようなのがいい。
全然知らない人でも、足を止める言葉がいい。
本質をとらえながら、多少ずれてて想像の余地があるのがいい。
「赤い星から」あたりが、
映画そのものと、我々日本人との、いい案配の仲立ちをしているタイトルではないかな。


オデッセイは、
マニュアルにありそうな「売れるタイトル」ばかりを先行させて失敗した例ではないか。
映画の本質的な部分と、なにも知らない人の仲立ちをうまくしていないと思う。

(暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう。
あなたならなんと邦題をつけるか?
それはなにも知らない人を、邦題だけで面白そうと思わせるか?)


特に微妙な映画は、
どこを取って、どこと仲立ちをさせるか
(またはどうやってドリームで騙すか)、
というセンスも問われる所。
ただ本質との仲立ちをすればいい訳ではない。

邦題はネーミングセンスだ。
キラキラネームあたりから、日本人の言葉はヤバイのかも知れない。

ネーミングとは、
そこに込められた夢を語ること。
それが寒くなく、いい感じであること。
その温度感を知るセンサーが鈍ってるのではないだろうか?



僕は配給元が、どういうスケジュールで動いているのか知らないが、
まさか邦題を毎週決めて毎週末公開している訳ではないだろう。
ネーミングに一ヶ月ぐらいはかけたいよね。
宣伝戦略にもちゃんと計画してるよね。
なんかもう、そういうのから見直さないとダメな時期に来てねえかな。
宣伝が、もうテレビ雑誌が中心じゃなくなって来てるんだから。

なんだかんだ言って、タイトルの情報が全てを決めるように、
メディアが退化してきてる気がする。
posted by おおおかとしひこ at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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