2016年04月29日

シーンという単独要素は存在しない

覚えたての言葉は、使いたがるものだ。
シーンという言葉は特に映画っぽくていい。

どういうシーンか?
このシーンはあのシーンを思い起こさせるのである、
あのシーンはこのシーンを下敷きに…なとなど、
つい知った風なことを言いたがる。

僕はあまりシーンという言葉を使ってこなかった。
それは、シーンというものは単独では存在せず、
必ず焦点とペアで存在するからで、
しかも「どこでやるか」なんて適当でよくて、
「何が今問題か 」のほうが遥かに重要だからだ。

セックスみたいなものだ。


台本というのは、柱を単位に書かれる。
柱及びその柱で設定された場所、天候、時間帯、季節をシーンという。

たとえば、
家の前、夕暮れ、とか、
日本シリーズ決勝戦のグラウンド、夜、とか、
会議室、外は雨、
などである。

シーンには大抵「そういうシチュエーションならそういうことがある」
という無言のアフォーダンス(日本語で言えば、空気)があって、
上の三つなら、
帰宅とか、鍵っ子とか、カレーの匂いとか、
緊張とかピッチャーとキャッチャーのやり取りとか、観客席から奥さんが見てるとか、
だらだらした詰まらない会議か、秘密の話か。

そういうものが、単なる場所だけでなく、
空気としてついてくるから、
「シーン」と聞くだけでなんだかゾクゾクしてくるものである。

しかし、それに惑わされるのは所詮初心者だ。

デートの初心者が、夕日の見える丘へ行かなきゃとか、
素敵なレストランで、サプライズ誕生日ケーキしなきゃとか、
そういうのに酔っていて、シチュエーションに流されているのと同じだ。


実際のところ、
その場所でなくてもよい。

ストーリーとは、
何が焦点かを明らかにし、
その焦点がどうなっていくかを、
最前列で見守るものである。


たとえば「白熱した交渉」を、
会議室でやる必要はない。

甲子園球場のバックネットや、
焼き鳥屋のカウンターや、
強盗に捕まって縛られたところ
(脚本添削スペシャル「ラリー・ザ・石焼き芋」参照)や、
プールに浸かりながらやってもよい。
(ソダーバーグの「トラフィック」にそういうヘンテコなシーンがある)

問題は、
その交渉が何故白熱しているか
(どれだけ緊急か、リスクとリターンの大きさ)、
その交渉がどれだけ一進一退か、
それがどれだけ興味深く、感情移入出来ているか、
どれだけハラハラしたり、行く末が気になるか、
それがどういう結果になり、
次気にしなければならないことは何になったか、
という、焦点である。


それさえ出来れば、
実は殆どのシーンは、別の場所でも撮影可能だ。

それをやるのに自然な場所(交渉ごとを会議室でする)のか、
不自然で、だからこそ面白い場所でする(プールなど)かは、
あなたが選んでいい。

そしてそれは、焦点に夢中であればあるほど、
ほんとはどっちだっていいのだ。


つまり、シーンのことを言うようなやつは、
焦点のことを全然分かってないやつなのだ。


勿論、その焦点を追いかける行方を、
面白おかしく出来る場所を選ぶのは大切なことである。
たとえば「香港国際警察」では、
パトカーや犯人の車は八百屋に突っ込んで、
野菜や果物が飛び散らなければならない。

脚本家は、ビジュアルの最終責任者ではない。
「何が起こっていて、どうなるか、次どうなるか」
の一連の焦点の責任者である。
シーンがどうこう言うやつは、
三流か、
全ての焦点がとてもハイレベルでなおかつベストマッチのことを言える、
一流かのどちらかだ。

で、超一流は、どこでやってたって大概面白い話にしてしまう。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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