2016年05月01日

日本の映画をつまらなくしている原因は何なの(・ω・)?

というまとめを見たので、俺も参加したい。

一言でいうと、脚本開発力のなさだと思う。

その原因は、
前例主義と、
読解力のなさ、
の二つだと考える。


僕の数少ない経験で言えば、
折角いい台本をあげても、
製作委員会の都合で、ぐちゃぐちゃにされて行く。
(そもそもダメな脚本も、ぐちゃぐちゃにされて行く)

ぐちゃぐちゃにされても、
なお機能する脚本を書くのが、
脚本家たるタフな仕事なのだが、
多くの新人脚本家はこれが出来ない。

そんなこと、やったことないからである。
(誰かについて学ぶ経験も積めない)

書類の訂正とかなら簡単だ。
書式が合ってるか合ってないか判断すればいい。
しかし脚本の直しはそうはいかない。
面白いか面白くないかは、少し直したらすぐわからなくなって行く。
経験者なら分かるだろう。


だから、前例主義が顔を出すのだ。
昔こうしたらうまくいったから、
今回もそう直してくれ、というオーダーになる。

そういう直しだったら、こうがいいのでは、
とその場でアイデアを出したとしても、
「いや、その直しでみんなのコンセンサスを取っておいたから」
と、仮に良いアイデアでも却下されることが殆どだ。
この前例主義が問題である。

その直しじゃよくならない、と主張する脚本家に対して、
製作委員会にコンセンサスを事前に取ったプロデューサーでは、
後者のほうが権力が大きい。
通すのは後者だからだ。

ということで、ホンはダメになっていくしかない。

優秀なPなら、
「その直しのほうが良さそうだ。
良くなる分にはみんなも問題ないだろうから、
それを書いてきてくれ。
なあに、俺が頑張って通してくるよ」
というべきだ。
あるいは、
「その直しのほうが良さそうだ。
ただしその良さを僕は委員会に説明出来そうにない。
一緒に来てくれるか?」
でもいいだろう。

ところが、ダメなPは、
「僕の指示した直しでも、その直しでも、
同じように感じるので、僕の直しで」
というのである。

前例主義によって目が曇ることもあるし、
読解力のなさでそもそも目が曇っていることもあるだろう。

いずれにせよ。
脚本家の直しは、Pの指示通りになると詰まらなくなる。
人に自分の作品を直されて、いい気分の脚本家はいない。

優秀なPで、脚本の問題点を鋭く指摘し、
さらに良くなるように練れる、スクリプトドクターのような人は、
ほとんどいないといってよい。
いないということは、前記のような人が殆どだということだ。


ここで新人脚本家は悩んでしまう。
Pの言っていることが正しいのではないかと。
(ベテランならば、Pの言う直しをしたふりをして、
別のところも直して、本質を変えてしまってよりよくする事が可能だ)

そういうときは戦ってよい。
喧嘩するのではなく、
何がいいものかを、議論することである。

何がいいと思っているかを突き合わせないと、
何の会話も成り立たなくなる。
同じものを見ながら、別々の所をいいと思っていることが、
実のところ殆どだからだ。


ある原作の映画化に挑んでいたとき、
二人のPで、原作のいいと思っている所が全く違ったのにはびっくりした。
僕が原作の欠点を指摘すると、二人ともそれに気づいていなかったこともある。
つまり、「原作の解釈が異なる」のであった。
これでは空中分解するのも当然だ。

勿論、原作なしのオリジナルでも同じ問題は原理的に起こる。


ちなみに「いけちゃんとぼく」では、
一端通った3億予算の脚本を、
撮影一ヶ月前に2億に減らさなければいけなくなり、
CG予算を5000万削るため、いけちゃんの出番は半分になってしまった。
(何故1億減ったかは、分からない。会社の事情とだけ説明された。
この時点で、「それでは無理なので降板します」とはなかなか言えないものだ。
デビューがかかっていたし、それを承知で向こうが言うのが汚いよね)

僕は「想像の世界に逃避する子供」として話を組み立てていたが、
その想像の世界は全カットされた。
(意地で粘土細工を作り、安いCGでも最低限はやった)

殴られるシーンが凄惨なのは、そこに想像の世界が重ね合わせられるから、
わざと凄惨にしていたのだが、それがなくなったことで、
ただ悲惨なシーンになってしまったのだ。
僕は、だとしたら、
一から人間ドラマに再構成しなきゃいけないと判断したのだが、
それを直すのに一週間しか与えられなかったし、
「このままでもそう悪くないと思う」とPは言った。
ここが、あの映画を名作に出来なかった分岐点である。

ちなみに何人ものプロデューサーが脚本を読んだとき、
「いけちゃんの正体が誰か分からない」と八割方言われた、
というのを聞いたとき、僕は大変ショックだった。
自分の筆力のせいかと思ったが、
その時点での台本は原作の台詞をそのまま持ってきていた。
それは読解力のせいだと思った。

そのせいで、編集後も別れの場面の脚本を直していた。
アフレコだから直せると判断してだ。
これを利用して、別れのシーンは名シーンに出来たけど。



既にコンセンサスがあるものを、ひっくり返すことが難しい。

密室会議で、脚本家が参加できない、
製作委員会方式だからである。

前例主義で、読解力もないからである。


おまけに、
キャストや原作を決めてしまい、
その前例に乗っかるからである。



進取の気性があり、読解力のあるPはいないか?
僕はずっと探している。
あるいは、自分がPになるしかないのだろうか。
その為には資金を当てなければならないという、
矛盾のループを生きているわけだ。

ということで、僕は今日もコンペ用の原稿を書いている。


日本の映画を詰まらなくしている、
最大の原因は、もしかしたら資金提供の困難さかも知れない。


別の問題で、コンペに制作費を出さないという、
日本特有の慣習の問題も存在する。
オリンピックのロゴ問題で浮き彫りになった。
コンペに制作費を出さないというのは、
店の酒を全部飲んでおいて、
これが一番よかったのでこれだけ金を払う、
というようなものだ、というのをどこかで見た。

全くその通りだが、店には不味い酒もあるので、
金を払ってみないと分からないのも問題だ。
そこで、テイスター、つまり読解力のセンスが格段に必要になってくる。
だが、読解力と資金は比例しない。


前例のないものに資金を提供し、
リスクを負える人はどこにいるのだろう。
それは、読解力に基づく資金提供のはずだ。
ドバイ?

日本のどこにいるのかねえ。
(だって日本の投資は、
既に成功した者に投資するループですよね)

もしかしたら、
資本主義の初期(能力や運に応じて成功が決まり、成功報酬を得る)
が終わり、
資本主義の中期(一端集まった金をローリスクで回すことや、
国の財政を回して増やしていく)
に移行したから?
(末期はどうなんの?
上級国民を下級国民が倒す、マルクス主義革命?)
posted by おおおかとしひこ at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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