2016年05月01日

プロットは、行動の表のこと

何をするか、
何が起こるか、
を基準にプロットを書こう。


誰がどう思うか、何を言うか、
これはどういう設定か、
何が隠されている設定で、どういう設定に変更になるか、
などは、プロットではない。

何が起こり、何をし、どうなった結果、
また何をし、何が起こり、…
という、何ループかの紆余曲折の末、
最終的にどうなったか、
がプロットなのだ。


今書いてる話で、
刺激的で哲学的な会話が中心のものなのだが、
内容は面白いのだが、
ちっとも話が進んでいないなあと気づいた。

該当するプロットの部分を見ると、
その哲学的な対話の大筋はあっても、
何をする、とか、何が起こるかは、
曖昧であることに気づいた。

どんな逼迫し、知的刺激の会話であろうとも、
そのパートは、プロット的には「対話する」でしかない。
つまり、話が動いておらず、退屈な部分なのだ、
ということに気づいた次第だ。

対話しながらも、殴るとか、寝るとか、
どこかで爆発が起こるとか、
そういうことをしない限り話は進まないのである。



極論すれば、プロットとは、doとhappenの連続でしかない。
isは、プロットではない。
posted by おおおかとしひこ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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