何をするか、
何が起こるか、
を基準にプロットを書こう。
誰がどう思うか、何を言うか、
これはどういう設定か、
何が隠されている設定で、どういう設定に変更になるか、
などは、プロットではない。
何が起こり、何をし、どうなった結果、
また何をし、何が起こり、…
という、何ループかの紆余曲折の末、
最終的にどうなったか、
がプロットなのだ。
今書いてる話で、
刺激的で哲学的な会話が中心のものなのだが、
内容は面白いのだが、
ちっとも話が進んでいないなあと気づいた。
該当するプロットの部分を見ると、
その哲学的な対話の大筋はあっても、
何をする、とか、何が起こるかは、
曖昧であることに気づいた。
どんな逼迫し、知的刺激の会話であろうとも、
そのパートは、プロット的には「対話する」でしかない。
つまり、話が動いておらず、退屈な部分なのだ、
ということに気づいた次第だ。
対話しながらも、殴るとか、寝るとか、
どこかで爆発が起こるとか、
そういうことをしない限り話は進まないのである。
極論すれば、プロットとは、doとhappenの連続でしかない。
isは、プロットではない。
2016年05月01日
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