自分の書いた脚本を、
演者になったつもりで演じてみよう。
誰もいない所で練習してもいいし、
誰かに見てもらってもいい。
そして次に必要なことは、
批評されることに慣れなければならない。
誰かのそれを見たとき、
あなたは感想を言うだろう。批評をしたり、
もっとこうしたほうがいいと言うかも知れない。
あなたが言うように、誰かもあなたの脚本について、
言うのである。
むしろ、あなたの作る脚本というジャンルは、
100万人から1000万人に、
何かしらの感想や文句を言われると思いなさい。
ボコボコにされる前提でいること。
いわれのない批判も受けるし、誤解もあり得る。
しかしあなたは、言い訳を出来ない立場にいる。
脚本家とは、そういう人生を選ぶことである。
手放しで絶賛されて、素晴らしいよくやった、
と拍手を受けたいならば、
キャバクラで50万も使えば味わえると思う。
しかし、脚本家とは、叩かれることのほうが多い人生である。
その叩かれ方は、的を外した意見もたくさんあるし、
的を射たものもそこそこある。
その痛みに耐えられないならば、
作品を発表するなどという人生を歩まないことである。
人生は称賛100%になることはない。
どんな偉人でも、悪口があるものだ。
ということは、「何をなしえたか」が大事だ。
つまり、「面白い話であったか」だ。
脚本家にとっての正義は、面白かったかどうか、それだけである。
面白い、とは、爆笑でもいいし、
泣ける、でも、為になった、でも、
深い何かを受け取った、でも、皮肉が効いてる、でも、
何でもいい。
感情的な満足のことである。
あなたが今まで面白い話を見て受けたものが、それである。
(あなたの思う面白い話を100本並べ、
それがどういう面白さを与えるのか、分析するのも悪くないぞ)
さて。
次は、また三題話を書きたまえ。
同じ三題に挑んでもいいし、
別の三題でもいい。
僕は、新入社員の暇なとき、
こんな時分だったけど、
三題話を100本書いた。
なるべくバラバラのジャンルで、
バラバラの面白さになり、
バラバラの落ちになるように。
その時磨いた何かが、今でも僕の基礎にいる気がする。
僕は、
5分シナリオを100本書けとか、
プロットを100本書けとか、
割りと数を書くことを要求する。
しかも手書きで!
それは、手に覚えさせるやり方だ。
ストーリーは頭では作れない。
現実世界で、体で語られるからである。
自作脚本を朗読するのは、それを体に叩き込む経験だ。
2016年05月02日
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