手書きについて、更に捕捉。
先人のものを手書きで写すこと。
これを業界用語で写経という。
何故みんな写経を薦めるの?
写メ撮ったりコピペでいいじゃん。
それは、目で読む以上の理解をするためだ。
逆にいうと、目で読む以上の理解というものがあるのだ。
目で読むのは、読者としての理解だ。
口で読むのは更なる理解を生む。
言葉のリズムや強弱が、
目で読んだ以上の理解が出来ることが多い。
では手で書き写すことで、
どういう理解が出来るかというと、
「書く者としての理解」なのである。
自分がこれを書くとしたら、
という当事者意識で書くと、ドキドキするものだ。
まずこの話の一文字目をどう書くのか。
何から始めるのがベストなのか。
二文目は。
ある言葉のあとに来る言葉遣いが、
どれだけ自分と違うのか。
構成はどうか。そろそろ○○タイムだが、
それをどう処理しているか。
その人特有の癖はどこにあるか。
シーンの切り取り方をどうしてるか。
何故次がこれなのか。
終わり方のキレ。
毎文字が、自分ならどうするか、この人はどうしたか、
という真剣勝負になるのである。
勿論、二時間シナリオや長編小説は、
体力的に難しい。
その一部を写経するのも悪くない。
苦手なパート(たとえば二幕冒頭、ミッドポイント前後)
だけを写経する、なんてやり方もあるけど、
僕は「最初から最後まで」を単位としたほうがいいと思う。
ということで、30分以下がいいのでは。
15分ぐらいなら、集中力が持つかも知れない。
試しに、脚本添削スペシャルの、
元原稿と、僕の書き直したリライト版、
計6本を写経してみるといいだろう。
字単位の理解が出来ると思うよ。
執筆という行為は、
白紙という荒野に、文という道を開拓することである。
自分なりのやり方でいついかなる荒野も耕せるのなら構わないが、
はじめからそうである人は少ない。
だとしたら、先人の耕し方のパターンを知るのである。
CM監督になる勉強法のひとつとして、
師匠の繋いだのと、1フレーム違わず一から組み直すという練習がある。
これによって、フレーム単位で理解するというやり方だ。
作曲だって、先人の曲を手で弾けるから出来るし、
絵だって模写はひとつの勉強法である。
踊りに至っては、振り付けのマスターが先だ。
創作文章が写経を否定する理由は、どこにもないよ。
ただ大変なだけ。
でも、大変じゃない練習なんてないよね。
勿論、手書きで。
2016年05月03日
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