2016年05月04日

長編と短編

短編が書ければ長編が書ける、わけではない。
長編が書ければ短編が書ける、わけでもない。

僕は基本的に、
「短編を沢山書ければ長編を書く資格がある」
のように考えている。
「その想定長編の文字数が、体の感覚で見積もれる」
能力のある人だけが、その長編に挑んでいいと考えている。


短編と長編で違うのは、集中力ではないか。

短編では、一気の集中力で書くし、見るものだ。
ところが長編は、その集中力ではつくらないし、見ない。
もっと起伏や緩急があるものである。

たとえば3分間ゆったりした場面なんか、長編では普通だが、
3分のゆったりは、5分シナリオでも10分シナリオでも致命的な欠陥になるだろう。
あるいは、「これだけ積み上げてきたからの、この場面」、
という集中力は、短編には出せない場面である。
クライマックスなんて特にそうだ。

長編は短編の集合体ではない。
長編全体で一本。
そういう計算が俯瞰できるかどうかだ。

まあ書いてるときはその場面を書くことで手いっぱいなので、
そこまで考えてる余裕はない。
全体を書き終えてから、
ここは緩でここは急、なんてリライトで彫り込んでいったりする。

長編ほど全体を眺めて書き直しを沢山したほうがいい。
大きい絵ほど全体のデッサンが狂いやすいのと、同じだからだ。


で、短編と長編の差ってなんだろう。

僕は事件の大きさであると思っている。
物理的大きさでもいいけど、
解決までの段階の多さや複雑さ、関わる人の多さなどの方が効いてくる。
多くの人に影響を与える、でもいいだろう。

だから長編では個人の内面なんてどうでもいい。
勿論、個人の内面に焦点は当てなければならないが、
それより大変な事態が起こる必要がある。
人間一人が小さく見えるような大事件が起こるのである。

つまり、短編より大変で複雑な事態と、個人の内面と、
両方を相手にして、なおかつ昇華させる力が長編には必要だ。


極端に言えば、ハリウッド映画ではしょっちゅう地球の危機が訪れている。
(少年漫画でもそうか)
警察全体を巻き込んだ大事件も起きているし、
この町全体を左右する大事件も起きている。
個人の内面にメインの焦点を当てる「ロッキー」だって、
ボクシングのヘビー級世界戦なんて大舞台の大事件だ。


勿論短編でも大事件を起こすことは可能だが、
「なんでそんな大事件が一瞬のうちに解決すんねん」という、
ネタ的な使い方だろう。
長編では、その解決に二時間かけるリアリティーがなければならない。

ということはつまり、扱う事件およびその周辺についての、
取材が欠かせないということだ。


宇宙人侵略による地球滅亡の危機ならば、
宇宙人の武力についてのリアリティーや、
軍隊のことについてのリアリティーを詰める必要がある。
(「インディペンデンスデイ」は、そうやってリアルに作ったうえで、
何故か大統領が元戦闘機乗りなんてファンタジーをぶっこんで来る。
この夏の続編は、宇宙船がでかすぎてなんじゃこりゃですな。
彗星帝国の方がまだリアリティーがあったよね)

警察全体を巻き込んだ大事件なら、
警察組織全体のリアリティーを取材しなければならないだろう。

関ケ原が題材なら、関ケ原についてのリアリティーを、
自分で書けるぐらいは知る必要がある。

ボクシングの試合がどういう仕組みでプロモートされてるか、
というリアリティーを知らなければ、
「ロッキー」の冒頭シーンのような、
ファイトマネーのぼられっぷりを描くことはできないと思う。



短編は、まあ想像で書けないこともない。
実際、30分程度までなら、ネット取材でなんとかなることが殆どではないか。
勿論専門知識が必要なら、現地取材や、人に会って話を聞いたり、
文献をあさる必要はあるかも知れないが。

それ以上は、ボロが出るような気がする。
お前、知らないで書いてるだろ、と知ってる人に突っ込まれるレベルというか。


長編の事件は、短編より規模が大きく、関わる人が多い。
ということは、サブプロットも沢山あるということ。
サブプロットが絡み合う感じは、経験を積まないと書けない。

クリストファーノーランの糞映画みたいに、
全然サブプロット同士が関係ないまま同時進行して勝手に終わる、
みたいにならないように、
ある人物の行動や発言が、ある人物に多大に影響したり、
ある事件の進展がある事件の進展に寄与したり、阻止したりなどの、
絡み合いを作っていくと面白くなる。

(いつも風魔で恐縮だが、
霧風や竜魔の小次郎への思い、絵理奈を挟んだ小次郎と武蔵の運命、
陽炎の思惑による分裂劇、黒獅子のストレートな生き様が劉鵬に与えた影響、
壬生の暴走によってメイン構造自体が歪んだこと、
蘭子や姫子と、小次郎が気持ちを通じ合わせたことなどなど)


ただぼーっとしてる人がいることがないように、
各登場人物に目的を持たせておくと、勝手に動いてくれるだろうね。
あることに関しての反応も違うだろうし。
長編にジェロニモ(キン肉マンの)がいてはならない。

あるいは、主人公の目的と微妙に異なる目的を持たせると面白くなって来たり。
勿論真逆の目的を持つ人とは、ぶつかり合うことになるだろうし。

その最中で起こる様々な外的変化、内的変化などを、
リアリティー溢れるように描けないと、長編は面白くならないと思う。



長編は短編より複雑で大きい。それだけだ。
逆に短編は長編よりシンプルでキレがある。それだけ。

どちらも、
事件と解決過程と解決があり、
冒頭と落ちが関係していて、
第一第二ターニングポイントとセンタークエスチョンがあり、
主人公の内的変化があり、
それが物語のテーマであるのは、同じである。
posted by おおおかとしひこ at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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