2016年05月08日

表現とは、自分を掘り出すことである

おそらくこういう経験をした人は多いと思う。

書き終えてから、はじめて「俺はこんな風に思っていたのか」と。
偏見、主張、あることについて思っていること。
自分でも気づかぬそれが、書き終えてからはじめて分かったりする。



ジョセフ・ジョースターなら、
「お前は今から○○と書くッ!」なんて予告してくれるかも知れないが、
我々は凡人なので、書く前は、ほんとうには何を書くかは分からない。

だから、つい、
「書いてみないと分からない」とか、
「書いてるうちにキャラが動き始めるから」とか、
「適当に書いてみて、あとは流れで」とか、
我々は言うしかない。

書き終えてはじめて、自分のなかから掘り出せた、
と自覚するからである。

ところが、これがプロットという事前計画と相性が悪いのである。


「書いてみないと分からないんだから、
事前に全部書けるわけないよね?」
という循環論法が成立してしまうのである。

じゃあプロット不要なのか?
否である。

プロットを持たずに執筆に入るのは、
樹海に素手で入るのと同じだ。
野垂れ死にしかないだろう。

プロットを地図、つまり未来予想図のように考えるから、
この手の反発が起こる。
それは、プロットへの誤解のような気がする。



プロットは、物語の構造、
及び見せ場の計算ポイント、
と考えるといいと思う。

前提と事件と、解決の方法という、一幕三幕に必要なもの、
それらの解決過程の段取りという、二幕に必要なもの。
各キャラクターの行動の理由や目的。
そして、どの辺でどういう見せ場が用意されているか。
(つまり、まだ見ぬ人たちに対して、
どこがパッと見のアピールポイントになるか)


それの担保材料、と考えておくとよいだろう。

実際には、本質的には何が生まれるかは、
書いてみないとなんとも言えない。
だけど、物語の外形的骨格は、プロットがあるとカッチリとハマる。


埋蔵金発掘をイメージしよう。
ここからここまでをこう掘ると、
枠をつくって、時にその枠からはみ出しながら、
深く掘り出していくような、
そういう感じを想像するといいかも知れない。

プロットは、どこをどう掘るかという、
毎日の計画表にすぎない。
そこから本当には何が生まれるのかは、
埋蔵金次第だと言えるだろう。


勿論、面白い展開をその場で思いついたら、
そっちに寄り道するのは面白い。
(最終的に、本題に不要と切るとしても、
その寄り道で作ったキャラクターや伏線を、
本編に混ぜこむことも可能だ)


物語の面白さには、
計算通りの面白さと、
計算外の面白さの、
ふたつがある。

前者がプロットの面白さ、
後者が実際に執筆で生まれた面白さだ。

両方あるのが理想だ。
つまり、プロットを事前計算して完璧なものを作っておき、
それを越える面白さを、自分のなかから掘り出して、
二重に面白くすると完璧だ。

計算通りの面白さだけでは、優等生すぎる。
計算外の面白さだけでは、どこへいけばよいか分からず、
立ち消えてしまう。
(たとえば原作風魔は、後者のみのタイプに感じる。
だから後半失速したのだ)

双方を産もう。

ということで、あなたの中に何が埋まっているかは、
本人含めて誰も分からない。
だとしたら、いいものを見たり読んだり、
経験したりしておいたほうがいいよ。
posted by おおおかとしひこ at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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