2016年05月08日

出来ないことをやっても、ぶっ壊れるだけだ

「ヤンキー君とメガネちゃん」という漫画がある。
連載開始当初、たいして面白くもないラブコメだと、
10話も読まずに切った記憶がある。

ネットのどこかで、
ひどい最終回+伏線ぶん投げ漫画の例で出てきたので、
気になってラストまで読んでみた。
あのたかがコメディに、何があったのだろうかと。

(以下ネタバレ)

ヒロイン失踪か。
幻魔大戦と、多分同じ病だ。
つまり、出来もしないことをやろうとするから、
ぶっ壊れる。

もっと言うと、自分を投影させたキャラクターを、
主人公にするから問題なのである。


作者は女性だろう。
多分メガネをかけてるブスである。
それが、元気と天然ボケが売りの主人公、
足立花と自分を同一視していた。

積極的に男(品川)に積極的に語りかけては、
毎度天然ボケが発揮されて、
ご破算になる。

初期のコメディ路線では、このループだった。

しかしネタ切れもあったのか、
少女漫画よりも速いペースで消費されてしまう週刊ペースでは、
登場人物がメイン二人のラブコメ、
という枠組みでは足りなくなってきたのである。

引きこもりの千葉を加入させ、
生徒会をやりはじめてから、
これは急にセイシュン群像劇ドラマコメディ風味に、
装いを変えてしまう。

絵柄は爽やかだが、
実質はオタサーの姫である。
天然ボケでドジッ子、何故か最強ヤンキーという、
話を転がしやすい主人公を軸に、
メイン主人公を副軸に、
そしてキャラの入り乱れるキャラものとして、
第二期を迎えたといってよい。

ところが。

第三期へ脱皮することなく、
この物語は急に失速する。

高校生活の強制終了、
すなわち受験と卒業のせいである。

本来ならば、
群像劇を進めつつも、
当初からあった展開、
花と品川のラブストーリーを成就させるのが、
王道展開だといえよう。

タイトルが「ヤンキー君とメガネちゃん」であることからしても、
それは王道だ。
たとえば「めぞん一刻」のように、
どちらかが別の人と付き合ってしまい、
一旦は距離が離れるというパターンで、
引き伸ばすことも出来ただろう。
(事実、大学編や社会人編を読者は期待していたはずだ)

だが。

作者には、おそらく、それらを描く実力がなかったのだ。
何故か?

花を他人ではなく、自分の投影にしてしまったからである。

これが他人としてのキャラクターなら、
花をいかようにでも再設定出来たはずだ。
過去を捏造し、
たとえばひどい振られ方をしたトラウマがあるとか、
ヤンキーをやめたきっかけは誰かが死んだからとか、
実家はやはり巨大ヤクザの家だったとか、
今後が面白くなるような、
「他人の」設定を作れたはずだ。

事実、その他のキャラクターについては、
そういうやり方で作っていた。
「所詮自分ではない他人なのだから、
それが面白くなるように設定と焦点を作る」ことが。
品川の後付けの家族すらそうだった。

しかし花だけは、
最初からいたキャラクターだけに、
自分を投影しているだけに、
新しく設定を捏造することが出来なかったのだと考える。

だから、「これ以上この場にいるのが苦しい」と、
失踪するのである。


幻魔についても、
僕は同様の考え方であるのは過去に論じた。
主人公東丈は、作者の物凄く好きだった人の投影のため、
他人であるところの別キャラ、
という三人称の割り切りが出来ず、
自分事として、そのキャラクターを引き受けてしまったのであると。

だから、架空のキャラクターが織り成す架空の物語内で、
架空のキャラクターがやる突飛な行動を思いつけず、
「自分がその中に放り込まれたような」恐怖から、
一歩も動けず、責任を取れなくて失踪したのだと。


恐らくこれは無意識の逃避である。
ここが厄介なところだ。

だから失踪の理由が、表の意識では理解できず、
他のキャラクターが代わりに「理由を詮索する」という展開になってしまうのだ。
無意識のすることは、顕在意識は自覚できない。
解離などの特徴は、記憶がないことである。
無意識を、顕在意識は探ることが出来ないのである。


東丈も、足立花も、
自分(もしくは現実の人)が強烈に投影されていたからこそ、
「この先の架空の展開」へ、
着いていけなかった。
着いていくだけの図々しさが、作者にはなかったのである。



だから、作者的には、
理由なく苦しいと思う。

おそらくヤンキー君とメガネちゃんは、
真幻魔のようにリブートしても、
途中で足立花は正体を明かさず失踪するであろう。


強烈に自己投影したキャラクターは、
決して主人公にしてはならない。

新展開のプレッシャーに、耐えられない。
自分の素性を明かし、一旦死を迎えるほどの辛い内面をさらし、
再び生まれ変わるような、
自分にとっては強烈すぎて不可能だけど、
他者の作品ではポピュラーな、
ハードな展開に、耐えられないからである。


何故花は失踪したのか?
花の正体は?

それを考えるのが辛くて、
作者が壊れたのである。

だから、そんなものはなかったのだ。

自分を投影していない、三人称キャラクターなら出来た筈なのに。


最終回、なんと花は、
四年後?に教師として赴任した品川の前に、
高校生として現れる。
それはつまり、作者の、
「成長なんて出来ない。わたしはラブコメのぬるま湯をずっと続けたかったのに、
書く力がなかった」という、
とても辛い敗北宣言に他ならない。


自分を投影させるな。
ダメなメアリースーキャラクターになるか、
失踪するほどぶっ壊れる可能性がある。

編集者が優秀でなければ、
彼女の内面がぶっ壊れることを察知できないだろう。
ぬるま湯のラブコメ展開にしておけば、
ここまで悲痛な壊れ方をすることもなかっただろうに。


自分を投影しているキャラクターは、
不当にバカにならない。
不当にコメディにならない。
不当にシリアスにならない。
不当に追い詰められない。
不当に切り開く力もない。

三人称型の物語にとって、扱いにくく危険なキャラクターのはずなのだ。
にもかかわらず、
「動かしやすいから」と、
自分を投影したキャラクターを主人公にしてしまう。

キャラクターを動かすのは、物語ることではない。
目的を決め、焦点を設定することが、物語ることである。


足立花の失踪も、東丈の失踪も、
その取り違えという未熟の、犠牲である。
posted by おおおかとしひこ at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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