2016年05月16日

「福山離れ」ではなく「詰まらない脚本離れ」だ

月9の視聴率が史上最低を更新しそうなのだそうだ。
それを主演の福山雅治の責任にして、
「福山離れ」と戦犯扱いするのはどうだろう。

「詰まらないストーリー離れ」
「詰まらない脚本離れ」が、
我々の本音だというのに。


たとえば「ロンバケ」が面白かったのは何故?
キムタクや山口智子のキャラクター性と、
ストーリーが面白かったからだ。
そのバランスが最高だったからだ。

50近くのオッサンと、
20そこそこの不細工のラブストーリーに興味が持てないのではない。
劇中で二人が協力して歌を作り、
福山がその歌を実際に作詞作曲する、
という仕掛けが悪いわけでもない。
それはガワでしかない。

何故彼らは引かれあうのか?
つまり、ラブストーリーの焦点そのものに、
何の興味も持てないから問題なのだ。

とりあえず番組紹介的なものを見ても、
特にひかれない。
過去に一曲だけヒットを飛ばした男と、
吃音症の元施設育ち。
その逆境をどう逆転するかという問題に、
今一つ興味が持てない。多少は面白そうだけど。

言うべき言葉を失った女が、歌に思いを託す構造は面白いが、
どんなことを言いたいのだが言えないのか、
という根幹に関わることがぼやかされていて、
興味が持てない。

「わたしはここにいる」ということを歌いたい、
とか、何でもいいんだよ、感情移入できれば。
それを最初に決めていないことが、
なんだか興味が持てない。

一方の男も、イケメンゆえ浮き名を流してきたが、
心の開き方を忘れてしまった設定らしい。
彼女の何に引かれたのか。
たとえば「本当の世界は現実にはなくて、
歌の世界にならある」という彼女の言葉に、
自分と同じものを見いだす、
でいいと思う。

とすると。

二人の歌作りそのものが、
二人のラブストーリーにならなければならない。

女がこういう詩を書いてきた、
それを男が間違って解釈したり改変して傷ついた、
それを訂正したがうまく行かなかった、
などのように、
歌の内容が、焦点となるべきだろう。

その言葉こそが、彼らの叫びであり、
彼らの人生を左右する言葉や考え方になるはずだ。
たとえば「ヘレン・ケラー」の中で、
「water」という言葉は、
触覚と言葉を結びつける、重要な発見であり、
ヘレンには知性があると分かる重要な場面だ。

それぐらい、歌の内容は二人のラブストーリーにとって、
徹底的に練られるべきである。

そんな大事な歌の内容を、脚本家が書かず、
福山と新人に書かせるのだという。

なんでやねん。


構造はミュージカルのはずだ。
彼らの心を代弁したり、
彼らのすれ違いや、触れあいそうになる心を、
代弁する、重要な内容のはずだ。
それをストーリーを作る側が書くのが、
ミュージカルというものだ。

もし福山が脚本を書くのなら、
歌詞を書く資格がある。
日常のゴタゴタだけ脚本家にやらせて、
二人のラブストーリーの核心を福山がかっさらっているだけだとしたら、
それは作り方が間違っている。
出来上がるラブソングは、
ストーリーの中身であるほど重要だからである。
作詞家として、歌物語の作者として関わるのなら構わないが、
演じるのまでやるのは力の分散度合いが間違っている。


何故ストーリーの根幹を、
自分達で作らずに、他人に預けるのか?
責任を押しつけやすいからである。
自分達で作った話じゃないから、
視聴率が悪くても、他人に責任を負わせることが可能だからである。
とかげの尻尾は切りやすいからである。

だから、「福山離れ」と、
尻尾にして切ろうとしているわけだ。

キャストも、たまったものではない。
自分の納得のいかない脚本かも知れないのに。
とはいえ、自分で書くことが出来ないから、
台本にある台詞を言っているだけなのに、
戦犯扱いされて首を切られるのだ。

おかしくないかこれ。


私たちがドラマ離れを起こしているのは、
芸能人離れをしてるからじゃない。
詰まらない脚本離れをしているのである。

それが分からないスタッフ達の、首が切られるべきである。

残念ながら彼らはフジテレビ社員であり、
責任はフリーランスの首を切って済ますだけである。

詰まらないストーリーの責任は、
ちゃんとプロデューサーが責任を取るべきである。
そして更迭されるべきだ。
しかしそれでチャンスを失うべきでなく、
面白いストーリーを作ったら、
また返り咲けるシステムを作るべきだ。
面白いストーリーの出来に、出世は左右されるべきである。

「成功した映画は俳優の功績になり、
失敗した映画は監督の引責になる」という。
成功した映画も、脚本監督の功績にするべきだ。



ということで、福山離れなる言葉は、もはや信用できない。
それを言うフジテレビも、マスコミもだ。
(フジテレビは言ってないかも知れない)

「若者の車離れ」なんて言葉も馬鹿だなあと思う。
車が不要な都会で、車に乗るメリットがあるわけない。
アンチ車社会の流れに世の中がなっているというのに、
若者だけが車に飛びつくわけがない。
車を出せば売れた時代は終わった。
逆に言えば、車は普及し終わったのだ。

この言葉を借りていえば、福山は普及し終わった。
福山が出ていれば何でも売れた時代は終わった。

福山が出ている、「どんな面白いストーリーか」が大事なのである。
龍馬伝もガリレオも、面白いストーリーだったから受けたのであって、
何でもいいから福山が出ていたから受けたわけではない。


いい加減、主演のせいにして首を切るのは止めたらどうだろう。
戦犯は脚本家であり、
それでゴーサインを出したプロデューサーである。
彼らの名前をこそ、福山雅治と同等に出すべきである。
ちなみに、

脚本 - 倉光泰子
演出 - 西谷弘、平野眞
プロデュース - 鈴木吉弘、草ヶ谷大輔

だそうな。
彼らをこそ、離れるべきではないだろうか?


もし、
福山と新人アーティストの二人がメインパーソナリティとなって、
毎回お題を頂いて、
60分かけて話し合いながら一曲のラブソングを作り、
時に喧嘩したり議論したりして、
最後に二人で歌う、というバラエティーがあるとしよう。
10週やって、番組のラストにアルバムとして売り出すと。

そっちの方が面白そうじゃね?
それなら福山離れは起きそうにないけど?

つまり、福山離れが起きているのではないし、
企画離れが起きているのでもない。
詰まらない脚本離れが起きているのである。
posted by おおおかとしひこ at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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