月9の視聴率が史上最低を更新しそうなのだそうだ。
それを主演の福山雅治の責任にして、
「福山離れ」と戦犯扱いするのはどうだろう。
「詰まらないストーリー離れ」
「詰まらない脚本離れ」が、
我々の本音だというのに。
たとえば「ロンバケ」が面白かったのは何故?
キムタクや山口智子のキャラクター性と、
ストーリーが面白かったからだ。
そのバランスが最高だったからだ。
50近くのオッサンと、
20そこそこの不細工のラブストーリーに興味が持てないのではない。
劇中で二人が協力して歌を作り、
福山がその歌を実際に作詞作曲する、
という仕掛けが悪いわけでもない。
それはガワでしかない。
何故彼らは引かれあうのか?
つまり、ラブストーリーの焦点そのものに、
何の興味も持てないから問題なのだ。
とりあえず番組紹介的なものを見ても、
特にひかれない。
過去に一曲だけヒットを飛ばした男と、
吃音症の元施設育ち。
その逆境をどう逆転するかという問題に、
今一つ興味が持てない。多少は面白そうだけど。
言うべき言葉を失った女が、歌に思いを託す構造は面白いが、
どんなことを言いたいのだが言えないのか、
という根幹に関わることがぼやかされていて、
興味が持てない。
「わたしはここにいる」ということを歌いたい、
とか、何でもいいんだよ、感情移入できれば。
それを最初に決めていないことが、
なんだか興味が持てない。
一方の男も、イケメンゆえ浮き名を流してきたが、
心の開き方を忘れてしまった設定らしい。
彼女の何に引かれたのか。
たとえば「本当の世界は現実にはなくて、
歌の世界にならある」という彼女の言葉に、
自分と同じものを見いだす、
でいいと思う。
とすると。
二人の歌作りそのものが、
二人のラブストーリーにならなければならない。
女がこういう詩を書いてきた、
それを男が間違って解釈したり改変して傷ついた、
それを訂正したがうまく行かなかった、
などのように、
歌の内容が、焦点となるべきだろう。
その言葉こそが、彼らの叫びであり、
彼らの人生を左右する言葉や考え方になるはずだ。
たとえば「ヘレン・ケラー」の中で、
「water」という言葉は、
触覚と言葉を結びつける、重要な発見であり、
ヘレンには知性があると分かる重要な場面だ。
それぐらい、歌の内容は二人のラブストーリーにとって、
徹底的に練られるべきである。
そんな大事な歌の内容を、脚本家が書かず、
福山と新人に書かせるのだという。
なんでやねん。
構造はミュージカルのはずだ。
彼らの心を代弁したり、
彼らのすれ違いや、触れあいそうになる心を、
代弁する、重要な内容のはずだ。
それをストーリーを作る側が書くのが、
ミュージカルというものだ。
もし福山が脚本を書くのなら、
歌詞を書く資格がある。
日常のゴタゴタだけ脚本家にやらせて、
二人のラブストーリーの核心を福山がかっさらっているだけだとしたら、
それは作り方が間違っている。
出来上がるラブソングは、
ストーリーの中身であるほど重要だからである。
作詞家として、歌物語の作者として関わるのなら構わないが、
演じるのまでやるのは力の分散度合いが間違っている。
何故ストーリーの根幹を、
自分達で作らずに、他人に預けるのか?
責任を押しつけやすいからである。
自分達で作った話じゃないから、
視聴率が悪くても、他人に責任を負わせることが可能だからである。
とかげの尻尾は切りやすいからである。
だから、「福山離れ」と、
尻尾にして切ろうとしているわけだ。
キャストも、たまったものではない。
自分の納得のいかない脚本かも知れないのに。
とはいえ、自分で書くことが出来ないから、
台本にある台詞を言っているだけなのに、
戦犯扱いされて首を切られるのだ。
おかしくないかこれ。
私たちがドラマ離れを起こしているのは、
芸能人離れをしてるからじゃない。
詰まらない脚本離れをしているのである。
それが分からないスタッフ達の、首が切られるべきである。
残念ながら彼らはフジテレビ社員であり、
責任はフリーランスの首を切って済ますだけである。
詰まらないストーリーの責任は、
ちゃんとプロデューサーが責任を取るべきである。
そして更迭されるべきだ。
しかしそれでチャンスを失うべきでなく、
面白いストーリーを作ったら、
また返り咲けるシステムを作るべきだ。
面白いストーリーの出来に、出世は左右されるべきである。
「成功した映画は俳優の功績になり、
失敗した映画は監督の引責になる」という。
成功した映画も、脚本監督の功績にするべきだ。
ということで、福山離れなる言葉は、もはや信用できない。
それを言うフジテレビも、マスコミもだ。
(フジテレビは言ってないかも知れない)
「若者の車離れ」なんて言葉も馬鹿だなあと思う。
車が不要な都会で、車に乗るメリットがあるわけない。
アンチ車社会の流れに世の中がなっているというのに、
若者だけが車に飛びつくわけがない。
車を出せば売れた時代は終わった。
逆に言えば、車は普及し終わったのだ。
この言葉を借りていえば、福山は普及し終わった。
福山が出ていれば何でも売れた時代は終わった。
福山が出ている、「どんな面白いストーリーか」が大事なのである。
龍馬伝もガリレオも、面白いストーリーだったから受けたのであって、
何でもいいから福山が出ていたから受けたわけではない。
いい加減、主演のせいにして首を切るのは止めたらどうだろう。
戦犯は脚本家であり、
それでゴーサインを出したプロデューサーである。
彼らの名前をこそ、福山雅治と同等に出すべきである。
ちなみに、
脚本 - 倉光泰子
演出 - 西谷弘、平野眞
プロデュース - 鈴木吉弘、草ヶ谷大輔
だそうな。
彼らをこそ、離れるべきではないだろうか?
もし、
福山と新人アーティストの二人がメインパーソナリティとなって、
毎回お題を頂いて、
60分かけて話し合いながら一曲のラブソングを作り、
時に喧嘩したり議論したりして、
最後に二人で歌う、というバラエティーがあるとしよう。
10週やって、番組のラストにアルバムとして売り出すと。
そっちの方が面白そうじゃね?
それなら福山離れは起きそうにないけど?
つまり、福山離れが起きているのではないし、
企画離れが起きているのでもない。
詰まらない脚本離れが起きているのである。
2016年05月16日
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