2016年05月16日

可能性は、どんどんなくなっていく

お話をはじめる前は、無限の可能性がある。
このワクワクした世界は、どこへ向かうのだろうと。

話が一定の方向性を持つと、
その可能性はどんどん狭まっていく。

ストーリーが挫折するのは、
そのことを序盤に把握してないからではないかと考える。


第一話や、オープニングは、
可能性の塊である。
ip細胞みたいなものだ。
どんな話にでもなれる。
冒険物語にでも、ラブストーリーにでも、
謎を秘めた物語にでも、
スカッと爽快な落ちのものにでも。

ところが、話が一定の方向性を持つと、
その方面にしか話の可能性がなくなってしまう。
たとえばどろどろした感情を持てば、
最早爽やかな世界に後戻りは出来ず、
どろどろの修羅場をやりこむか、
そこから抜け出るかの二者択一しかなくなる。
爽やかな世界になる可能性が無くなった、
と言える。

勿論、この先が可能性ゼロになったわけではなく、
その方向性において、面白くなる可能性が生まれた、
と考えることも出来る。

面白いストーリーは、
はじめからその方向性がしっかりしていて、
ぶれない。
この話はこういう方向へ向かっている、
という確かな感覚が常にあり、
なおかつ、その方向性での結末が読めない面白さがあるものである。

逆に、詰まらないストーリーは、
方向性がなかなか見えない。
こういう話なのかと思いきや、
ああいう話かも、となってふらつく。

それは何故か。
可能性が無限であることを、捨てたくないからではないか。

逆にいうと、この方向性で勝負をする、
と定まってないからではないか。


大抵のアマチュアは、
ストーリーを書きはじめるときはワクワクし、
全能感が溢れて楽しいのだが、
途中で面白くなくなって、投げ出してしまうことがよくある。

それは、開始当初にあった可能性が、
どんどん狭まって行く感覚に襲われ、
あるひとつの方向性に定まってしまうことが怖い
(苦しい)からではないだろうか。

たとえていえば、
クラス替えした瞬間の、四月の雰囲気がただ好きなだけではないか?
五月や六月になれば、
誰かと誰かが仲違いしたり、誰かのハッタリがばれたり、
当初とキャラが変わったり、何かの事件が起こって雰囲気が変わるものだ。
それは、無限の可能性から、ある方向にしか可能性がなくなったような感覚だ。

子供時代に戻りたいという妄想もそうだろう。
現在の可能性が限られてしまった大人の状態より、
人生がどうにでもなりえたあの頃に戻り、
全ての可能性を持っている全能感を味わいたいという妄想。

あらゆる可能性を持つという点では、
大金持ちになりたいという欲望もそうかも知れない。
多くの女にモテていることもそうだろう。


ストーリーは、展開していくごとに可能性が減るのか?

逆だ。

展開していけばいくほど、
結末の可能性はどんどん増えていく。
これもあり得る、あれもあり得る、というように。

可能性が減るように序盤を書いているから、
詰まらなくなり、挫折するのである。

ストーリーは、この先のストーリーの展開の、
可能性が豊かになるように書かなければならない。
可能性を狭めると、デッドエンドになってしまう。

どうやって可能性を狭めるのではなく、
広げて行くのか?

現在出てきている要素を、掘ることによってだ。
もうひとつある。
バックストーリーを利用する。
さらにあるとすると、
新しい要素を持ってきて、世界と出会わせる。


ファイアパンチの5話は、
バックストーリーを利用しつつ、
新しい要素を足すことで、
これからの可能性を広げた。
ただ、新しい要素を足すだけだと、
サン編のように、方向性が全く定まらなかった。
この法則は、参考になる。
(ベストの選択とは限らないけど、
苦し紛れでも使える技だということ)

つまり、方向性とは、
過去と現在があることで、未来の方向が決まるのだ。

最初に方向性が定まっていない状態から、
どんどん方向性が定まり、
あらゆる可能性を持った状態ではなくなる。
だけど、
過去と現在を合わせたとしても、
未来はなお無限である。
posted by おおおかとしひこ at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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