僕の書いてきた脚本論は、
メタレベルというか、
わりと上位構造の話が多い。
プロットや構成やストーリーラインやターニングポイントや焦点や、
テーマや構造などについてのことだ。
実際のところ、執筆の現場レベルから、
この大局構造なんて見えていない。
現場レベルの周りを見ながら、
そこから俯瞰して大局構造を見なければならないのは、
絵だって音楽だってストーリーだって一緒である。
ところで、現場レベルのことでは、
ストーリーは何を書けばいいんだ?
主人公を書こう。
そいつが何かの事件に巻き込まれ、
(あるいは自ら起こし)
どうしても自分で解決しなきゃいけない羽目に落とそう。
その主人公はまず、何を思うだろうか。
厄介だなあ、だろう。
よしきた!ではないはずだ。
困ったらどうする?
誰かを呼んで相談するよね。
こうして、ストーリーの最初の雪だるまが作られる。
あとはこれを転がして大きくしていくつもりでいればいい。
その呼ばれた誰かは何て反応するだろう。
二人(以上)は相談するだろう。
主人公の見解と他の人の見解は異なるだろう。
だって違う人だもの。
性格や経験が違うこともあるし、
立場の異なる場合もある。
同じ真実を前にしても、対処や反応は異なるのが普通だ。
さて、事件は主人公一人の単独事故でないかぎり、
相手がいる。
つまり、事件は、
誰かと誰かの間で起こっている。
二人の間かも知れないし(小規模)、
組織間のことかも知れない(大規模)、
個人間だと思っていたら組織ごと関係せざるを得なくなったり、
組織の問題だと思っていたら個人だけだったり。
二人の間のことかも知れないし、(単純)
三人以上が関わる問題もある。(複雑)
ストーリーというのは、
起こってしまった問題に対して、
機械的にではなく、
人間が人間として解決していくさまを描いていけばよい。
人間だから、感情が伴う。
人間だから、スチャラカだったり、判断を間違ったりする。
人間だから、冷徹でないものを欲する。
人間だから、素直になれなかったりする。
人間だから、熱いときもある。
人間だから、スマートにいかない。
人間だから、人間的なのである。
この人間らしさをちゃんと描けるかが、
人間ドラマの面白さだといってよい。
そして人間は、一人じゃなくて、複数いる。
人間ドラマとは、人間たちの間に存在する。
どう反応するか、なんて言うか、
全部を俯瞰できる人はいないから、
その人の立場、目線、性格、判断力でしか、
反応、判断、行動できない。
人間は万能ではない。
人間たちがたくさんいればいるほど、
その間の摩擦も大きい。
その摩擦こそが人間ドラマである。
つまり、人間ドラマはかなりめんどくさい。
(極端なめんどくさい人間ドラマの例は、
橋田壽賀子作品だろう)
さて、その当事者である主人公の目を通して、
私たちはストーリーを見ることになる。
その主人公のリアクションが、
我々の気持ちと大体おなじなのだ。
そういう状況に放り込まれたとき、
大概はめんどくさい。
人が何かをやるときは、二つしかない。
ひとつは、是非やりたいとき。
もうひとつは、やらなければならないとき。
大抵は後者だ。
(だから空条承太郎は「やれやれだぜ」と、めんどくさがるのだ)
そのうち、前者になる瞬間があるだろう。
その人が以前から抱いていた夢の実現の機会になるときとか、
その人の真の希望に沿っていたときとか、
その人が真に輝くチャンスと知ったときなどだ。
たとえば、いじめられっ子が仕返しのチャンスを得たときなどだ。
主人公が、やらなければならないだけで行動していると、
息が詰まってくる。
そこで、主人公が本当にやりたいことって何だろう、
と設定しておくとよい。
(それは、最初の事件が起こる前に示しておく。
あとで設定すると、後付け臭く見えるからである。
つまり、だから、ストーリーの冒頭は、
主人公の内面からはじまって、
次に事件が起こるパターンが多いのである)
そこに触れたとき、
主人公は、やらなければならない以外の、
是非ともやりたい、という意思で、
初めて前に進むことになる。
ストーリーは、実は、そこからが本番だ。
(ハリウッドの理論では、ここまでで30分。
このあと90分)
やりたいだけで行動したって、
世の中は反発するだろう。
(俺の好きな子にセックスさせてと言っても、
張り倒されるだけである)
反発する世の中に対して、
主人公(たち)は、何かを成し遂げなければならない。
それは事件の解決であり、
主人公が本当にしたかったことの実現である。
(難しい言葉で、前者を外的問題、後者を内的問題という)
勿論、主人公のこの目的に対して、
私たちはハラハラと、
それが実現できるのだろうか、と常に見守る
(これをセンタークエスチョンに注目している、という)
のだが、目的を持つ人には必ず障害があるものだ。
妨害してくる人。これを敵という。
敵は悪者とは限らない。
娘の自立を邪魔する親、
受験しなければならない人に対するサボロー、
ある事件で関わる無知な人、
なども敵になりうる。
妨害の意志があってもなくても、
目的達成の障害になるものは、ストーリー上敵になる。
勿論、敵を必殺技で倒すのではない。
現実的な対処法で、障害を除いていくしかないのである。
これが人間ドラマを生むエンジンだ。
(勿論、必殺技に相当する人間ドラマもある。
水戸黄門は印籠が必殺技だし、
刑事コロンボは、「最後に一個だけ聞いていいですか?」が、
必殺技だ)
問題は当初は一つだと思われていたが、
次々に関連する厄介事が噴出してくる。
それに対処しなければならなかったりもする。
関わる人や敵も増えていくだろう。
(まあ一つだとすぐ解決してオシマイなので、
こうやって引き伸ばしていくわけだ。
逆に巻くためには問題を膨らまさないことだ)
これらを、最も満足のいく大団円に導くのが、
あなたの仕事である。
さあ、執筆のレベルから見たって、
やはり全体を俯瞰したくなるよね。
全体を俯瞰したときに、
三幕という構造があったり、
この脚本論で議論している、様々なことがあるわけだ。
2016年05月17日
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