現場目線で書いていると、
その場しのぎ→その場しのぎの連続になるのではないだろうか。
それはそれでライブ感のある、
ヒリヒリしたものが書けるかも知れない。
(たとえば漫画「風魔の小次郎」の、
聖剣戦争までのライブ感は物凄かった)
だが、書いている途中、
ふと襲われるのである。
「この話は、結局どういう意味なのか?」にだ。
書いている側ではなく、
観客側に立って見てみよう。
ある物語を見るときに、
何かに引かれて見始めるのだろうけど、
それはそもそもアドリブのライブ感を期待して見るのだろうか。
短期的にはそうかも知れないが
(大体集中力1ターン15分以内)、
ずっと見続ける長期的には、そうではないだろう。
表面上は刺激的で面白いかも知れないけれど、
長期的なものが結局混沌で終わってしまうものだとしたら、
一体どう思うか?
「ああ満足した」?
違うよね。
「面白かったけど、
なんか物足りないね」だろう。
もっと言えば、
「もっとガツンと腹に落ちて欲しかった」となるはずである。
つまり、見る側は、
意識的にせよ無意識的にせよ、
アットランダムな思いつきを見たいのではなく、
作者によってある程度整理されたものが見たいはずである。
作者によって練られたものを見たいはずである。
最初にふられたものが最後に効いてきてなるほど!
と唸ったり、
ミスリードに引っ掛かってやられたと思ったり、
このラストが最初から計画されていたとは…と見事さを堪能したり、
全てのことに意味があった、と思いたいのである。
それを、シーン単位の思いつきでこなせるだろうか。
自然に出来る人もいる。
勝手な思いつきから、
思うように語りはじめ、
うまいこと起伏を作り、
気持ちを振り回し、
気づいたら全てのことには意味があって、
素晴らしいラストに帰着させることが、
出来る人もいる。
しかしそんなの稀で、
一度出来た人も、次の新作で出来るとは限らない。
以前のヒット作のノリで始めたはいいが、
途中でうまくいかず失速する、
二作目漫画の多いこと!
(最近ヒットしたら長期化するので、
この現象見なくなったよね)
あの漫画「風魔の小次郎」ですら、
反乱編で失速してしまったではないか。
(作者の個人的事情もあるが)
全てのことには意味があった、
と思うとき、
観客は作品全部を俯瞰した目線に立つことになる。
物語がラストに訪れたとき、
これまでの素晴らしい全部を思い出し、
余韻に浸るためである。
山を登り終えたり、なにかを達成したときは、
そういうものだ。
作者が、その目線に立っていないわけがないよね。
その目線に立つためには、
この作品がどんな意味があるかを、
考えなくてはならない。
どんな意味があるかって?
考えたこともないよね?
自分の人生にどんな意味があるかすら、答えを出してないものね。
「あなたが弊社に入ったら、
弊社にどのようなメリットをもたらしてくれますか?」
と同じ質問だ。
そんなのわかんねえよ、俺はパフォーマンス出すから、
あんたたちで評価してくれよ、
というのが正解だと思う。
(そういう人事のいるような会社は、
そもそも無能なのでこっちから願い下げだ、が正しい)
人は自分だけは、客観的に見られないものだ。
従って、作品全部の意味を、あなたが確定することは非常に難しい。
(こういうつもりで書いている、は出来るけど、
このように受け入れられる、が100%実現するとは限らない)
ということで、
「そのつもり」を、あなたが作っておくことが、
作品全体を、バラバラなアドリブにせず、
空中分解するのを防ぐ役割をするのである。
それをテーマという。
テーマは作者の主張ではない。主張するなら論文を書け。
テーマはモチーフでもない。モチーフとは描写の対象でしかない。
テーマは、作品全部をひとつに纏める力のことどある。
「ドラゴンボール」にテーマはあるか?
ないと思う。
ないから、西遊記風冒険譚から、
バトル修行漫画になり、神への挑戦漫画になり、
宇宙人バトル漫画になるという、
アドリブの変奏を成し遂げた。
これはレアケースだ。
「スラムダンク」にテーマはあるか?
微妙にある。
友情、努力、勝利の世界観の中で、
目標がなくてチンピラをやっていた男が、
ある目標を見つけて「左手は添えるだけ」の境地、
無為自然に至ることである。
それは、完結した、というスタイルだから言えることだ。
ドラゴンボールは正しく完結したとは言えないラストだ。
(そもそもアドリブのライブ感なのだから、
いつ終わってもいいのだ)
このブログでは、テーマについて深いところに切り込んでいるが、
そこまで難しく考えなくていい。
それよりも、
「この物語は、大体こういうことを、
最終的に表現するのだろう」という内容をある程度詰めておくと、
全体がぶれずに済むのである。
全体がぶれないということは、
前ふりはきちんと後に消化され、
後付けはなく、唐突な思いつきの路線変更もなく、
破綻も矛盾もせず、
最初からひとつのゴールへ向かう、
全てが統御された世界になるということである。
たとえば今連載中の「ファイアパンチ」だが、
テーマが見えてこない。
全体を決めてないのだと考えられる。
「世界は絶望だらけだが、希望はある」でもなさそうだし、
「復讐こそわが命」でもなさそうだし、
「性癖暴露万歳」でもなさそうだ。
それが一ヶ月たっても見えてこないことが、
失速(最初は意味ありげだったのに、
その意味ありげな勢いがなくなる。
つまり、ひとつの意味が解明されて、
次の意味ありげの波が来ていない)
と感じる原因だ。
序盤である種のテーマを感じさせることは、
とても大事だ。
「これはこのような秩序を描こうとしていて、
作者の思いつきに振り回されることがない、
保証付きである」と感じさせて、
「腰を据えて付き合う価値がある」
と思わせるからである。
勿論、それは後に裏切ってもいい。
「最初はこう感じさせていた癖に、
それを裏切るとは、計画済みだったな!」
と思わせれば成功だ。
途中でテーマを感じさせることも、とてもいい。
「これは軌道を外れていない、
全てに作者の計画的意志が入っている、
素晴らしい秩序の一部である」
と思うことが出来るからだ。
そしてラストにテーマを感じさせるのもとてもいい。
「やはりそうだったか。
これは最初から計画された素晴らしいものを、
私たちは全部目撃出来た。
なんと素晴らしいものか」
と思うことが出来るからだ。
物語とは、長期的に付き合うことに他ならない。
5分や10分で終わるものではない。
長期的に付き合うことは、信用ということと関係する。
短編がランダムで滅茶苦茶な面白さをつくっていいのに対して、
長編はじっくり信用されることが必要だ。
そうでなければ、「この先も面白そうだぞ」と思えず、
「途中で切ってもいいか」と思われるからである。
映画館なら仕方なく最後まで座っているが、
DVDなら途中で止めて返却することも可能だ。
YouTubeなら停止ボタンで一発退場である。
実は、物語を人が見続ける理由は、
この先が気になるという火急的理由の他に、
今は面白くないがいずれ面白くなる、という期待が含まれていることのほうが多い。
それは、一回面白いことがあったからで、
その時作者を信用したからだ。
その信用が続く間は作品を見続けるし、
その信用が無くなったら、打ちきりというものだ。
(ファイアパンチは、いまいち信用できなくなってきている)
何でもかんでも、
危機があったり異常な感情で持たせることだけでは、
そんなに長いこと持たせられない。
持たせるのは、「この先も面白くなるだろう」という、
期待や信用なのかもしれない。
その信用は、
作者はひとつのテーマについて、
全てを深く理解して、計画的に全てが並べられており、
我々はその懐の中で、揺りかごのように揺られているだけで、
楽しめるはずである、
というものだ。
女が男に全面的に体を任せるときは、こういう時だろうかね。
テーマが主張であるわけがない。
だったら、選挙カーに抱いてと群がる女だらけになるだろう。
主張をするカッコイイロッカーには、
抱いてと群がる女だらけにはなっているが、
それは全てのディテールが強い主張に貫かれているからかも知れない。
テーマは主張とは限らない。
むしろ、全体を俯瞰した視点に立ったときに、
見えるもののことである。
現場目線で書いているだけでは、
その視点に立てないだろう。
正確に言えば、
現場目線とその俯瞰視点を、
常に行き来出来る人が、
面白いストーリーを書くことが出来るのだ。
テーマを最初に決めるかどうかは、
ラストを最初に決めるかどうかと関係する。
ラストにテーマが確定するからである。
これに関しては、前項の議論と同じかも知れない。
僕は、短編ならえいやで書いちゃえ、と言う。
長編は計画的にせよ、と言っている。
稀に計画しなくても名作が生まれることがあるので、
絶対的な正しいやり方ではないが、
凡人ならば無計画は挫折の死亡フラグであるものだ。
2016年05月20日
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