2016年05月24日

焦点は、具体的にせよ

焦点とは、まさに観客の注意がそこに向けられている、
その内容のことだ。

それは、「この先はどうなるのだろう」という抽象的なのは良くない。
ぼんやりすぎる。
具体的にせよ。
たとえば「犬に噛まれた!血が止まらない!死ぬ!」とかのようにだ。


焦点は、
「果たして、この先○○だろうか?」と疑問型で問える。
上の例だと、
「果たして、失血死するのか?」だろう。
文脈によっては、
「果たして、狂犬病に感染したのか?」かも知れないし、
「果たして、ヴァンパイアになるのか?」かも知れない。

問いが具体的だと、
殆どの問いは、イエスかノーかで答えられる。

失血死か? イエスorノー。
狂犬病か? イエスorノー。
ヴァンパイア化か? イエスorノー。

これに比べて、
一体この先どうなるのか?は、イエスorノーで答えられない。
だからぼんやりする。

焦点がハッキリしているとは、
質問がイエスorノーで答えられるほど、
具体的な問いになっていることだ。

勿論、作中でこの問いが台詞で与えられたりするわけではない。
観客が、文脈から読み取るのである。


テレビにテロップを出すことを想定しよう。
もし焦点がハッキリしているなら、
その焦点を、「果たして、○○出来るか?」
形式で出すことをイメージしてみよう。

いずれ、イエスかノーかで答えが出る。
そうしたらそのテロップは消えるとする。

ストーリーの構造上、
たったひとつの問いに答えが出て、
それで話が終わりにはならない。(よっぽど短い話は除く)

問いは大抵複数あるものだ。

あるいは、ひとつの問いがイエスかノーかで答えが出ても、
新たな問いに化ける。
「次は○○出来るか?」に。
このポイントをターニングポイントという。


分かりやすく、
「カレーをつくる」というストーリーで考えよう。

センタークエスチョンは
「うまいカレーは完成するのか?」である。
(たとえばダッシュ村的なイメージ)

最初にやることはなんだろう。
野菜の皮剥きと切ることかな。
「果たして野菜の下ごしらえは出来るのか?」
と右下にテロップが点灯する。
なんだかんだあって切り終わる。イエスという答えが出た。
「次は肉だ」という台詞がターニングポイント。
表面を焼いて風味を閉じ込めるやり方をするとしたら、
「肉の風味をうまく閉じ込められるのか?」
というテロップが点灯する。
(恐らく食べる瞬間まで点灯だ)
あるいはご飯を炊いているなら、
「うまいご飯は炊けるのか?」が点灯するだろう。

容易に想像できるように、
問いはいくつでも立てられるし、
サブ問題も取り上げることが可能だ。
たとえば野菜のサブ問題で、
「ジャガイモの角をちゃんと立てられるか?」とか、
アクシデントで手を切ってしまったら(ターニングポイント)、
「うまく包丁を扱えるのか?」が点灯する。
それらは、イエスかノーかで答えが出ると、消えるだろう。

こうして、数々のテロップが点灯する中、
最も大きな問い、
「このカレーはうまいのか?」に、
イエス(ハッピーエンド)かノー(バッドエンド)か答えが出て、
ストーリーは終わるわけだ。



焦点は、同時にいくつもあり得るし、
階層構造を持ってもいる。
複雑でもいいし、単純でもいい。

問題は、「それをどれだけ集中して、面白く見れるのか」である。

ダッシュ村の構造は、
TOKIOが好きという前提だから、
TOKIOが苦労して作った野菜をカレーにしよう、
というストーリーならば、おそらく最後まで面白く見るだろう。
バラエティーとは、タレントを好きだという理由で、
見続けさせる原動力にするものだ。
(勿論、話題の面白さもある)

ストーリーの本来の「引っ張る力」とは、
感情移入である。

好きだろうが嫌いだろうが、感情移入は起こるのであった。
たとえばいかに野菜を育てるのが困難か分かれば、
感情移入が出来るかも知れない。
死んだ仲間が持っていた種芋から作ったとか、
戦国時代にあった芋を再現したとか、
何かしら物語的な面白い前提があれば、
感情移入は起こりうるというものだ。
(感情移入の初期の形は、興味である)



興味があり、感情移入していれば、
人はその焦点を気にして、次第に夢中になってゆく。

焦点を追わなくなるときは、
話が詰まらなかったり(矛盾や無理がある)、
感情移入が途切れているときだ。



言うまでもなく、これはファイアパンチの批評である。
いつまでたっても世界の構造が見えず、
いまひとつキャラクターに感情移入出来ず(登場エピソードしかなく、
次に続くエピソードがない)、
焦点が具体的な問いで示しにくいので、
私たちの集中力は、もういいやとなるのである。
(たとえば5話のラスト「妹は生きていたのか?」は、
強烈な焦点であった。
ところが6話では、ノーとも断言できないし、イエスも匂わせている。
たとえば「にいさま…」と一言呟くだけで、
イエスっぽい、と焦点を引き伸ばすことが可能なのに、
その焦点は使い捨てにされた感じだ。
あの漫画が詰まらないのは、
次週に引っ張る焦点が、すぐ消えてしまうことである。
消えるなら追う必要もないや、と我々はどうでも良くなってしまうのだ)
posted by おおおかとしひこ at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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