この場合、
目に見えるところとは、
台詞とかト書きの、文字面の部分のことである。
言葉のチョイスとか言い方とかの、
表面的な部分は、勿論脚本家の腕の見せどころだが、
実際脚本家が書いているのは、
その奥に存在する、ストーリーという流れである。
たとえば、
ある人がこういう状況で、こういう行動を取った。(見える部分)
我々はそこから、彼の動機や目的を読み取る。(見えない部分)
動機や目的は、文脈から読み取れる、内容の一部である。
(勿論、場面によっては、「俺は○○目的だ!」と宣言するのもあるかもだ)
他にもある。
ある場面を見たときの、観客の予想。
これはこうなるに違いないとか、
実はこうなのだろうということ。
これを裏切ったり(どんでん返し)、期待通りに答えて、よし!と言わせることについては、
わりと書いてると思う。
単純なことで言えば、
チャップリンが酔っ払いの形態模写をするとしよう。
あっちにフラフラこっちにフラフラするのだが、
何故か無事、みたいな。
その時、人に「転びそう」と予測させ、
「でも転ばない」を演じるときに、面白さがある。
小どんでん返しの繰り返しになるわけだ。
「こうなるのかな…あれ、違ったぞ」
「こうなるのかな…やっぱり、なった!」
の二つで、観客を引っ張るのである。
もうひとつ小さな話。
自由が丘に昔、火吹き大道芸人がいた。
(今は歳なのか、火吹きをやめたようだ)
この人は火吹きの前に手品をするのだけど、
ずっと火炎瓶を脇において、火を燃やしたままやるんだよね。
みんな火吹きを楽しみに来てるから、
つまりはずっと伏線として火を燃やしておくのである。
で、オーラス、その火炎瓶を持ったとき、
私たちの興奮はマックスになるのである。
キター!ってね。
手品→火吹きという単純な段取りにせず、
手品の間もずっと燃えてる火が、
期待を煽り続ける仕組みになってるのだ。
(てんぐ探偵の火吹き、小此木さんはこの人が元ネタ)
私たちの期待は、
「この人転びそう」「この人火を吹く」という小さな場面単位から、
たとえば、
「死んだと思ってた妹が生きていた!」
「復讐が成功してほしい」
「世界は救われるだろう」
などの長大なストーリー単位まで、様々にある。
脚本家というものは、
小からはじめて大に転がして、
観客の注意や予測を、引き続ける人と言っても過言ではない。
あとなんだろ。意味かな。
結局、この話になんの意味があったのか、
というものを人は求める。
教訓話が分かりやすい。そういう教訓だよねと。
主張や反対意見を述べている時も分かりやすい。
でも「ロッキー」の意味は?
「不屈の闘志は素晴らしい」?
「ラッキーでしか上に上がれない貧乏」?
「心が傷ついても、立ち上がれ」?
なんとでも言えるよね。
どれも読み取れる。
だからどれも正解。
複数の意味がストーリーには重なっている。
よく作者が、
「色んなお土産を持って帰ってください」とか、
「ストーリーは読者のものだから」とか言うのは、
こういうことだ。
複数の意味が重なっていて、
どれが重要とかないし、決めるものでもない、ということだ。
だってストーリーは論文じゃないからね。
それがあるメインのものについてキッチリ因果応報が作られていて、
サブ要素もそれを強化するように綿密に配置されているとき、
テーマが強い、というのである。
こういうのは、しびれる。最近あんまりないけれど。
動機。予測。意味。
これらは、脚本の表面上には、ひとつも書いていない。
それを、私たちが読み取るから、ストーリーは面白いのだ。
つまり、私たちは観客として、
二重に存在する。
表面上の言葉や場面を楽しむ観客。
動機を推理したり、これからを予測したり、意味を受け取りながら見る観客。
この二重性こそが、
人のつくるものの面白さってことなのだ。
前記事にひっかけると、
人工知能のディープラーニングでは、前者しか出来ない。
(だから彼を困らせるには、
チューリングテストで、後者に関する議論をさせるとよい)
後者は、時々国語のテストに出る。
正確な読み取りが出来ないと、
人間として会話できないからね。
こういうのも人工知能は(今のところ)苦手だろうね。
あ、もうひとつあった。
焦点だ。
期待のうち、一番フロントの疑問形のことだね。
これに関しては最近ちゃんと書いた。
緊張と弛緩、起伏もそうかもしれない。
(起伏がジェットコースターのコースだとしたら、
焦点はその接線方向かも知れない)
今回の話は、内容だけ判ってればよろしい。
実感を伴う人は、随分書いてる人だろう。
自分でこれらを使いこなすには、
おそらく十年かかるだろう。
(十年後まだここで書いてるかは、知らん)
2016年05月25日
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