人生につまづいたり、転ぶことは辛いことだ。
リアル自分なら堪らない。
だけど映画は三人称。
だれか他の人の人生だ。
自分なら辛いことも、
他人なら見世物である。
「この人は、つまづいて諦めるの?
それとも、上手く立ち上がるの?」
後者が、物語になるのである。
リアル人生で諦めたことは、
年を取れば取るほどあるものだ。
子供の頃のスイミングは辞めたし、
そうだな、F1ドライバーになる夢は諦めた。
世界征服とモテモテは、まだ諦めてないかも知れないねえ。
自分のことだと、
無理だと諦めるしかない。
ところが物語という他人は、
決して諦めない。
苦難や辛さを乗り越えて、
つまづいても転んでも、頑張るのだ。
諦めたらそこで試合終了で、
エンドマークがついてしまうからだ。
「上杉達也は和也の代わりに、
南を連れていきたくて甲子園を目指したが、
一回戦で負けたので諦めた」では、
物語にもなんにもならない。
それは、物語とは、
「目的とその実現」が主骨格だからである。
自分の人生では、
何が主骨格かなんか、あとで振り返らないと分からない。
僕は水泳選手にならなかったから、
子供の頃のスイミング教室通いは、
その伏線にはなり得なかった。
その時はそれなりに必死だったのにね。
他人の人生である物語では、
そのような実現しなかったことは省く。
目的とその実現に必要なものだけに、
整理するものである。
つまり、他人である主人公は、
物語の中で、100%つまづく。
しかも初手で。
原理上当然だ。
目的の実現が物語なのだから、
実現したらおしまいだからである。
15秒CMならいざ知らず、
目的発生!即解決!だとすぐに終わってしまう。
ということは、
目的の発生から実現まで、
映画では二時間近くかかるということ。
つまり、つまづかないと、話が転がらない。
だから、初手で100%つまづく。
「新企画の稟議書を上げたいのですが」「却下」
「今度ごはん行こうよ!」「無理」
「仇をうつ!」「ボコボコ」
「脱出する」「行き止まりだ」
見世物は、ここからはじまるのである。
つまり、
「つまづいた主人公が、
どうやってここから成功するのか?」
が、物語なのだ。
あなたが自分の人生で、
つまづきまくったり、成功していないことは、
物語に利用できる。
つまづくリアリティーや悔しさを描くことに、
大いにプラスになるに違いない。
しかしそれは初手とか初期にしか、役に立たない。
何故なら、
「そのあとどうやって逆境を好転させるか」
を、沢山沢山考えなければならないからである。
あなたが人生の中で、
沢山のつまづきを好転させたり、
沢山の目的を実現させた、
凄腕の人ならば、
その経験を生かして、
その好転ぶりや逆転ぶりを思いつけるだろう。
だけど我々はリア充でない、ダメ人生だ。
自分の中に正解はない。
だから、取材するのである。
成功した人が、
つまづきをどう好転させたのか。
行き詰まったとき、どう成功に結びつけたのか。
一人でやったのか、仲間がいたのか。
挫けたとき、どうやって最後まで心を保ったのか。
リアル人生であなたが成功する必要はない。
あなたは、
「うまいこと見える」話を創作するだけでよいのだ。
偉人伝からそのへんの人の話まで、
人生には様々な成功譚が転がっている。
運が良くて成功したこともあるだろうし、
物語的なドラマチックさを持つ成功もあるだろう。
だから他人の話は面白い。
あなたは、創作の、そのような他人の話をつくることを、
しようとしているのであるよ。
転んだときに、どうするか。
それだけが、物語の質を決めるのだ。
2016年05月27日
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