2016年05月27日

転んだときに、どうするか

人生につまづいたり、転ぶことは辛いことだ。
リアル自分なら堪らない。
だけど映画は三人称。
だれか他の人の人生だ。

自分なら辛いことも、
他人なら見世物である。
「この人は、つまづいて諦めるの?
それとも、上手く立ち上がるの?」
後者が、物語になるのである。


リアル人生で諦めたことは、
年を取れば取るほどあるものだ。

子供の頃のスイミングは辞めたし、
そうだな、F1ドライバーになる夢は諦めた。
世界征服とモテモテは、まだ諦めてないかも知れないねえ。

自分のことだと、
無理だと諦めるしかない。
ところが物語という他人は、
決して諦めない。

苦難や辛さを乗り越えて、
つまづいても転んでも、頑張るのだ。
諦めたらそこで試合終了で、
エンドマークがついてしまうからだ。

「上杉達也は和也の代わりに、
南を連れていきたくて甲子園を目指したが、
一回戦で負けたので諦めた」では、
物語にもなんにもならない。
それは、物語とは、
「目的とその実現」が主骨格だからである。

自分の人生では、
何が主骨格かなんか、あとで振り返らないと分からない。
僕は水泳選手にならなかったから、
子供の頃のスイミング教室通いは、
その伏線にはなり得なかった。
その時はそれなりに必死だったのにね。


他人の人生である物語では、
そのような実現しなかったことは省く。
目的とその実現に必要なものだけに、
整理するものである。

つまり、他人である主人公は、
物語の中で、100%つまづく。
しかも初手で。

原理上当然だ。
目的の実現が物語なのだから、
実現したらおしまいだからである。
15秒CMならいざ知らず、
目的発生!即解決!だとすぐに終わってしまう。
ということは、
目的の発生から実現まで、
映画では二時間近くかかるということ。
つまり、つまづかないと、話が転がらない。

だから、初手で100%つまづく。

「新企画の稟議書を上げたいのですが」「却下」
「今度ごはん行こうよ!」「無理」
「仇をうつ!」「ボコボコ」
「脱出する」「行き止まりだ」

見世物は、ここからはじまるのである。
つまり、
「つまづいた主人公が、
どうやってここから成功するのか?」
が、物語なのだ。



あなたが自分の人生で、
つまづきまくったり、成功していないことは、
物語に利用できる。
つまづくリアリティーや悔しさを描くことに、
大いにプラスになるに違いない。
しかしそれは初手とか初期にしか、役に立たない。

何故なら、
「そのあとどうやって逆境を好転させるか」
を、沢山沢山考えなければならないからである。

あなたが人生の中で、
沢山のつまづきを好転させたり、
沢山の目的を実現させた、
凄腕の人ならば、
その経験を生かして、
その好転ぶりや逆転ぶりを思いつけるだろう。

だけど我々はリア充でない、ダメ人生だ。
自分の中に正解はない。

だから、取材するのである。

成功した人が、
つまづきをどう好転させたのか。
行き詰まったとき、どう成功に結びつけたのか。
一人でやったのか、仲間がいたのか。
挫けたとき、どうやって最後まで心を保ったのか。

リアル人生であなたが成功する必要はない。
あなたは、
「うまいこと見える」話を創作するだけでよいのだ。

偉人伝からそのへんの人の話まで、
人生には様々な成功譚が転がっている。
運が良くて成功したこともあるだろうし、
物語的なドラマチックさを持つ成功もあるだろう。

だから他人の話は面白い。
あなたは、創作の、そのような他人の話をつくることを、
しようとしているのであるよ。



転んだときに、どうするか。
それだけが、物語の質を決めるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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