2016年05月29日

デスゲームものが流行った理由

「ソウ」や「キューブ」みたいな密室ものから、
「ガンツ」「カイジ」(漫画版)みたいな、
オープンスペースのスケールの大きなものまで。

「主人公(たち)が何者かに拘束され、
死をかけたゲームに挑戦させられる。
逃げても負けても死。
この異常なシチュエーションのゲームに勝たねばならない」

というジャンルだ。


何故これが流行ったかというと、
「簡単に死という危険が設定出来るから」だと思う。

発展した現代社会で、
死の危険から逃げられない、
なんてシチュエーションは滅多にない。
借金でヤクザに監禁されるか、
異常者に付きまとわれたとき、
病気の時、
ぐらいしかないだろう。
そしてリアルでない限り、フィクションでのそれは飽きている。

だから危険の度合いはこれ以下にしかならない。
最大危険がパターン化してしまい、
それ以下の危険しか、物語にはなくなる。

デスゲームという発明は、
「新しい死の危険の創作を可能にした」
という一点において新しかったのだ。


「そこに死の危険があり、
人はそこのルールに従いながら、
時にルールを破りながら、
勝ち抜いて生き残ること」は、
現代的リアル人生でもSFでも西部劇でもファンタジーでも同じだ。
デスゲームものは、
そこに面白い独自のルールと世界設定を持ってきたのである。

主人公と敵味方の駆け引きを描くことで、
現代には希になってしまった、
「本気で生死をかけた闘いをする」
という、物語娯楽本来の原始的面白さを、
獲得したのである。

密室に監禁という状況は、
予算的にも助かったしね。


そういうのを考えつくぐらいだから、
ゲーム的駆け引きの面白さを書くことに長けていた人が書いたのも、
大きい。

デスゲームものは、だから、本質的に面白い構造を持っている。


だけど、乱発しすぎて、飽きてきたよね。


デスゲームものには欠点がある。
一行目の「何者かによって」の部分だ。

「何故我々はこんな目にあわなければいけないのか」
の理由明かしが納得がいかないと、
詰まらないのである。
それは、人が神に問うことと等しい。

「ソウ」では、異常殺人鬼の仕掛けたゲーム。
「キューブ」では、意図不明。
「ガンツ」では、宇宙人襲来に向けた訓練だった。
「カイジ」は、金持ちたちの娯楽に提供される。

この中ではガンツが頭抜けていた。
だからラスト以外は圧倒的に面白かった。
その他の奴も、その最初だから面白かった。

後発ものは、それらを繰り返せないから、
微妙になっていったのである。


「金持ちや異常者の娯楽のために」
以外の何かを思いつけば、ネタバレの瞬間が面白くなり、
再びデスゲームは面白くなるに違いない。

(その意味で、フィンチャーの「ゲーム」は、
二度と使えないネタバレのどんでん返しで、
デスゲームものの傑作の一本だ)



逆に、
死の危険の新しいパターン(後ろにある危機)、
それを乗り越える動機(何故それをしなければならないか、
という前にあるもの。デスゲームでは何者かの強制)、

この二つさえ新しく思いつけば、
デスゲームものでなくとも、
話は面白くなるのである。
posted by おおおかとしひこ at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック