「ソウ」や「キューブ」みたいな密室ものから、
「ガンツ」「カイジ」(漫画版)みたいな、
オープンスペースのスケールの大きなものまで。
「主人公(たち)が何者かに拘束され、
死をかけたゲームに挑戦させられる。
逃げても負けても死。
この異常なシチュエーションのゲームに勝たねばならない」
というジャンルだ。
何故これが流行ったかというと、
「簡単に死という危険が設定出来るから」だと思う。
発展した現代社会で、
死の危険から逃げられない、
なんてシチュエーションは滅多にない。
借金でヤクザに監禁されるか、
異常者に付きまとわれたとき、
病気の時、
ぐらいしかないだろう。
そしてリアルでない限り、フィクションでのそれは飽きている。
だから危険の度合いはこれ以下にしかならない。
最大危険がパターン化してしまい、
それ以下の危険しか、物語にはなくなる。
デスゲームという発明は、
「新しい死の危険の創作を可能にした」
という一点において新しかったのだ。
「そこに死の危険があり、
人はそこのルールに従いながら、
時にルールを破りながら、
勝ち抜いて生き残ること」は、
現代的リアル人生でもSFでも西部劇でもファンタジーでも同じだ。
デスゲームものは、
そこに面白い独自のルールと世界設定を持ってきたのである。
主人公と敵味方の駆け引きを描くことで、
現代には希になってしまった、
「本気で生死をかけた闘いをする」
という、物語娯楽本来の原始的面白さを、
獲得したのである。
密室に監禁という状況は、
予算的にも助かったしね。
そういうのを考えつくぐらいだから、
ゲーム的駆け引きの面白さを書くことに長けていた人が書いたのも、
大きい。
デスゲームものは、だから、本質的に面白い構造を持っている。
だけど、乱発しすぎて、飽きてきたよね。
デスゲームものには欠点がある。
一行目の「何者かによって」の部分だ。
「何故我々はこんな目にあわなければいけないのか」
の理由明かしが納得がいかないと、
詰まらないのである。
それは、人が神に問うことと等しい。
「ソウ」では、異常殺人鬼の仕掛けたゲーム。
「キューブ」では、意図不明。
「ガンツ」では、宇宙人襲来に向けた訓練だった。
「カイジ」は、金持ちたちの娯楽に提供される。
この中ではガンツが頭抜けていた。
だからラスト以外は圧倒的に面白かった。
その他の奴も、その最初だから面白かった。
後発ものは、それらを繰り返せないから、
微妙になっていったのである。
「金持ちや異常者の娯楽のために」
以外の何かを思いつけば、ネタバレの瞬間が面白くなり、
再びデスゲームは面白くなるに違いない。
(その意味で、フィンチャーの「ゲーム」は、
二度と使えないネタバレのどんでん返しで、
デスゲームものの傑作の一本だ)
逆に、
死の危険の新しいパターン(後ろにある危機)、
それを乗り越える動機(何故それをしなければならないか、
という前にあるもの。デスゲームでは何者かの強制)、
この二つさえ新しく思いつけば、
デスゲームものでなくとも、
話は面白くなるのである。
2016年05月29日
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