2016年05月29日

偏愛の理由

人は必ず何かを偏愛する。

全ての全てにあまねく愛を注ぐことはしない。
ちょっとしたひいきから、
異常なる偏愛まで。

その理由を探すことは、人間というものの真にせまる。


真実のところは、
「ただなんとなく好きだから」かも知れない。

だがそこに、「納得のいく理由」があると、
人が引き付けられる物語になる。

ストーカー殺人(富田さんの件は、
今現在、意識不明のまま必死で生かされているが、
社会的、芸能生命的に殺人にひとしい)
は、
ただなんとなく彼女が好きだから、では物語的に詰まらない。
人は納得したい生き物である。

初期の頃は「自称名」を拾って、韓国人の犯罪だ、
という物語にされた。
次は「沢山のものを送ったが無視され、一部送り返された」を拾って、
ヲタストーカー、という物語にされた。

そこに顔写真が広まり、
「これは気違いの顔だ」という物語にされた。
「送ったものの中に猥褻な本があった」で、
気違いぶりは真実味を増す。
次は、「彼女がアイドル仲間に彼の情報を言っていた」らしき事が分かり、
病んだツイートが解読され、
「それが復讐のきっかけ」という物語にされた。

今度は、「橋本愛ヲタだったが、
彼女がロマンポルノにはまってたと知り、ヲタを辞めた」
が広まり、チェリーボーイの暴走という物語にされつつある。

一方で吉田豪が「彼女は音楽家であり、
アイドルユニットに一度参加しただけ。
いわゆる地下アイドルの握手会というジャンルとは違う」
旨を主張しているにも関わらず、
バカフジテレビが、
「アイドルに詳しい吉田豪によると、
アイドルとファンの関係が」などと、
彼の名前を利用して自説を展開していることがわかり、
またフジが捏造、と箔を落としている。


さて。

こんな残酷な悲劇を、人は物語として理解したがる。

実際ナイフで20箇所も刺したのは、
理性ではなくその場の「訳のわからない衝動」だと思う。
しかしそれを、「人は物語として理解したがる」。

異常なる偏愛に、理由を探したり、
その理由で納得をしたがる。
その理由で納得できない情報が現れたら、
理解(つまり物語)を更新したがる。


今回は悲劇だったが、
そうでないものについても構造は同じである。
ハッピーエンドだろうがバッドエンドだろうが、
ポジティブだろうがネガティブだろうが、
本人は何かを偏愛するし、
他人はそこに理由を見つけたがり、物語化したがるのである。

(最近で印象的だったのは、
お笑い芸人が大量の制服盗んでたやつかなあ。
これもネガティブか)


あなたは、
それを創作で提供する係である。


偏愛の理由。

そこに、物語の火種がある。



僕は物語というものを、
複雑で理解しがたい現実を、
言葉(理屈)という一次元メディアで理解すること、
だと考えている。
現実で「起こったこと」は確かで変わらないが、
その「理解の仕方」は無限にある。
(何故なら、本人ですらそれは無意識でやっていて、
言葉で説明できないかも知れないからだ)

だから、物語は無限に発生する。
そのうち生き残るのが、
「全てに理屈が通り、理解できる、面白い物語」だ。
(例えば今回は、チェリーボーイの暴走という物語に収束し、
在日の犯罪の物語は、なかったことになるだろう。
理解は収束する。多くの人が共有しやすいものに)
posted by おおおかとしひこ at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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