人は必ず何かを偏愛する。
全ての全てにあまねく愛を注ぐことはしない。
ちょっとしたひいきから、
異常なる偏愛まで。
その理由を探すことは、人間というものの真にせまる。
真実のところは、
「ただなんとなく好きだから」かも知れない。
だがそこに、「納得のいく理由」があると、
人が引き付けられる物語になる。
ストーカー殺人(富田さんの件は、
今現在、意識不明のまま必死で生かされているが、
社会的、芸能生命的に殺人にひとしい)
は、
ただなんとなく彼女が好きだから、では物語的に詰まらない。
人は納得したい生き物である。
初期の頃は「自称名」を拾って、韓国人の犯罪だ、
という物語にされた。
次は「沢山のものを送ったが無視され、一部送り返された」を拾って、
ヲタストーカー、という物語にされた。
そこに顔写真が広まり、
「これは気違いの顔だ」という物語にされた。
「送ったものの中に猥褻な本があった」で、
気違いぶりは真実味を増す。
次は、「彼女がアイドル仲間に彼の情報を言っていた」らしき事が分かり、
病んだツイートが解読され、
「それが復讐のきっかけ」という物語にされた。
今度は、「橋本愛ヲタだったが、
彼女がロマンポルノにはまってたと知り、ヲタを辞めた」
が広まり、チェリーボーイの暴走という物語にされつつある。
一方で吉田豪が「彼女は音楽家であり、
アイドルユニットに一度参加しただけ。
いわゆる地下アイドルの握手会というジャンルとは違う」
旨を主張しているにも関わらず、
バカフジテレビが、
「アイドルに詳しい吉田豪によると、
アイドルとファンの関係が」などと、
彼の名前を利用して自説を展開していることがわかり、
またフジが捏造、と箔を落としている。
さて。
こんな残酷な悲劇を、人は物語として理解したがる。
実際ナイフで20箇所も刺したのは、
理性ではなくその場の「訳のわからない衝動」だと思う。
しかしそれを、「人は物語として理解したがる」。
異常なる偏愛に、理由を探したり、
その理由で納得をしたがる。
その理由で納得できない情報が現れたら、
理解(つまり物語)を更新したがる。
今回は悲劇だったが、
そうでないものについても構造は同じである。
ハッピーエンドだろうがバッドエンドだろうが、
ポジティブだろうがネガティブだろうが、
本人は何かを偏愛するし、
他人はそこに理由を見つけたがり、物語化したがるのである。
(最近で印象的だったのは、
お笑い芸人が大量の制服盗んでたやつかなあ。
これもネガティブか)
あなたは、
それを創作で提供する係である。
偏愛の理由。
そこに、物語の火種がある。
僕は物語というものを、
複雑で理解しがたい現実を、
言葉(理屈)という一次元メディアで理解すること、
だと考えている。
現実で「起こったこと」は確かで変わらないが、
その「理解の仕方」は無限にある。
(何故なら、本人ですらそれは無意識でやっていて、
言葉で説明できないかも知れないからだ)
だから、物語は無限に発生する。
そのうち生き残るのが、
「全てに理屈が通り、理解できる、面白い物語」だ。
(例えば今回は、チェリーボーイの暴走という物語に収束し、
在日の犯罪の物語は、なかったことになるだろう。
理解は収束する。多くの人が共有しやすいものに)
2016年05月29日
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