「こういうのが見たい」という欲望に答えることに、
僕はなんの意味もないと思っている。
サービスでやることはあるけれど。
何故なら、
「こういうのが見たい」と物語を作るのは、
自己投影で見る映像に過ぎないからである。
自己投影で見る映像は、
好き嫌いしかない。
AVに男優のケツはあまり写るべきでないし、
BL狙いの作品に、美女との本気恋愛が出てくるべきではないし、
ジャニーズと女優の共演には制約がかなりある。
なろう小説だったかラノベだか忘れたのだが、
主人公がピンチになるのはダメとか、
ヒロインに殴られるのはダメとか、
そんな制約が言われはじめているらしい。
「それは読者が望まないからで、
望むものを見せるべき」という理屈だ。
あほかと思う。
これを認めるのなら、これは物語ではない。
見たいものだけ見たい写真集である。
以前役者のメイキングを否定したときに、
彼女たちの夢を壊したくないので書かなかったが、
メイキングはメイクアップが入っている。
実際の現場はもっと汚いし、
男たちももっとみっともない。
メイキングカメラが入ったらメイクアップをして、
そこからメイキング用のキャラを作らなければならない。
芸能人というのは大変な商売だ。
まあ現場でただ待っているより、好かれる要素にはなるんだろうけど。
(ちなみに、CMのメイキングでは、
メイキングなのに肌修正をデジタルでしているよ。
もうそれが常識なんだよ)
見たいものを見たいだけなら、
ストリップ小屋に行ってなさい。
野郎歌舞伎にでも行ってなさい。
(テニミュや刀ステは、現代の野郎歌舞伎か、という議論はあり得る)
物語は、人生を扱う。
人生は心地よく、見たいものだけで溢れていない。
見たくないものばかりかも知れない。
けれど私たちは物語が好きだ。
何故なら、よい物語はよい感情移入があるからである。
よい感情移入は、嫌いな人や不快な人にも可能である。
(前記事にひっかければ、私たちは凶悪犯岩崎すら、
チェリーボーイの悲劇として感情移入可能だ。
それは、物語の力なのだ)
嫌いな世界、不快な世界、
不幸だらけの人生ですら、
私たちはどこかに感情移入する。
それが物語の力だ。
(一例をあげれば、
不遇なことにめげずに成功しようとする志の高い人、
という物語に我々は感情移入する。
不遇や不幸が不快でもだ)
好きなものだけ見たいのは、自己投影してるだけである。
その好きなものがダメになったら、自己が傷つくから嫌なのだ。
アイドルが他人とセックスしていたらファンを辞めるのは、
彼女に自己投影しているからだ。
憧れは、投影をされる商売である。
たとえ不快なものだろうがなんだろうが、
感情移入していればそれを必死で追う。
アイドルが他人とセックスしていて、
指原に自己投影していたファンは辞めた。
しかし彼女が島流しにあい、這い上がった成功譚に、
感情移入したファンはたくさんいる。
それが、物語の力である。
(秋元は、物語の力を使うのがうまい。
つまり昭和プロレスの持っていたものと同じである)
あとは、我々が、
感情移入できる物語を提供すればよい。
自己投影と物語を混同しなければよい。
2016年05月29日
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