2016年05月29日

願望を投影したいのか?感情移入なのか?

「こういうのが見たい」という欲望に答えることに、
僕はなんの意味もないと思っている。
サービスでやることはあるけれど。


何故なら、
「こういうのが見たい」と物語を作るのは、
自己投影で見る映像に過ぎないからである。

自己投影で見る映像は、
好き嫌いしかない。

AVに男優のケツはあまり写るべきでないし、
BL狙いの作品に、美女との本気恋愛が出てくるべきではないし、
ジャニーズと女優の共演には制約がかなりある。

なろう小説だったかラノベだか忘れたのだが、
主人公がピンチになるのはダメとか、
ヒロインに殴られるのはダメとか、
そんな制約が言われはじめているらしい。
「それは読者が望まないからで、
望むものを見せるべき」という理屈だ。
あほかと思う。

これを認めるのなら、これは物語ではない。
見たいものだけ見たい写真集である。

以前役者のメイキングを否定したときに、
彼女たちの夢を壊したくないので書かなかったが、
メイキングはメイクアップが入っている。
実際の現場はもっと汚いし、
男たちももっとみっともない。
メイキングカメラが入ったらメイクアップをして、
そこからメイキング用のキャラを作らなければならない。
芸能人というのは大変な商売だ。
まあ現場でただ待っているより、好かれる要素にはなるんだろうけど。
(ちなみに、CMのメイキングでは、
メイキングなのに肌修正をデジタルでしているよ。
もうそれが常識なんだよ)


見たいものを見たいだけなら、
ストリップ小屋に行ってなさい。
野郎歌舞伎にでも行ってなさい。
(テニミュや刀ステは、現代の野郎歌舞伎か、という議論はあり得る)


物語は、人生を扱う。

人生は心地よく、見たいものだけで溢れていない。
見たくないものばかりかも知れない。
けれど私たちは物語が好きだ。
何故なら、よい物語はよい感情移入があるからである。

よい感情移入は、嫌いな人や不快な人にも可能である。
(前記事にひっかければ、私たちは凶悪犯岩崎すら、
チェリーボーイの悲劇として感情移入可能だ。
それは、物語の力なのだ)

嫌いな世界、不快な世界、
不幸だらけの人生ですら、
私たちはどこかに感情移入する。
それが物語の力だ。
(一例をあげれば、
不遇なことにめげずに成功しようとする志の高い人、
という物語に我々は感情移入する。
不遇や不幸が不快でもだ)



好きなものだけ見たいのは、自己投影してるだけである。
その好きなものがダメになったら、自己が傷つくから嫌なのだ。
アイドルが他人とセックスしていたらファンを辞めるのは、
彼女に自己投影しているからだ。

憧れは、投影をされる商売である。

たとえ不快なものだろうがなんだろうが、
感情移入していればそれを必死で追う。
アイドルが他人とセックスしていて、
指原に自己投影していたファンは辞めた。
しかし彼女が島流しにあい、這い上がった成功譚に、
感情移入したファンはたくさんいる。

それが、物語の力である。
(秋元は、物語の力を使うのがうまい。
つまり昭和プロレスの持っていたものと同じである)


あとは、我々が、
感情移入できる物語を提供すればよい。
自己投影と物語を混同しなければよい。
posted by おおおかとしひこ at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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