テーマの選び方によってである。
神バランスを保ちながら、
(それは内容だけでなく、
各スタッフを食わせるという、
共産主義的な考え方も含む)
この作品は、
なお、王道過ぎる話を、現代的に更新した。
テーマによってだ。
現代は不寛容の時代である。
ネットの発達で、ヘイトに溢れている。
ヘイトの中身は、おそらく殆どが偏見や凝り固まった先入観だ。
見た目だけで判断し、
本当の姿を見ない。
だから間違ったレッテルが貼られたままである。
その誤解を溶かし、本当の姿を見るには、
「自分こそ偏見にまみれている」と自覚するしかない。
ズートピアは理想の町でもなんでもなかった。
しかし、理想を皆で追求しようとする町のことだった。
(ここはユートピア思想と同じである。
市民という考え方が浸透している、
西洋的な考え方だ)
つまりは、伝統的な考えが、
現代は失われたが、
それを冒険をしたのちに回復させる、
という構造そのものは王道なのだが、
結論の反対、「不寛容の時代」が新しく、現代的に更新されていたことが、
この映画を古くさくさせなかったのである。
この一点以外は、
実にクラシカルな素晴らしい王道バランスだ。
王道も王道で、古くさいぐらい。
それを尚、現代の問題を使って更新したからこそ、
この映画は「今」に響いた。
映画とは、こういうことだ。
既に確立された、やり方がある。
古典的な、やり方がある。
それを使って、現代的に更新する。
それはつまり、古典的なやり方のマスターと、
現代批評の鋭さを、アウフヘーベンさせることである。
つまり、
デッサンをまずしっかりさせて、
次にモダンと融合させる、
西洋的な伝統的なやり方なのである。
日本の伝統にこのやり方はない。
師匠について、門前の小僧習わぬ経を読む、
という日本の伝統的なやり方は、
少なくとも映画業界では失われた。
失われたからこそ、今の邦画はダメなのかも知れないし、
違う原因でダメなのかも知れない。
少なくとも、監督と脚本をエンドクレジットの頭に出す、
その劇団の順番を、今の邦画は失っている。
全ては脚本である。
それを指揮して実現する監督である。
人気芸能人や、音楽や、ビジュアルデザインや、
ダンスや、アクションや、3Dなどの、
ガワは、そのあとに大事なことに過ぎない。
その伝統的なシステムに乗っ取り、
なおかつ現代批評をこなし、
正解を出してみたこの作品は、
十年に一本クラスの出来だと感じた。
伝統が失われ、
現代批評もままならず、
感情移入もテーマも子供並みの、
日本映画は、
100年のひらきをつけられた。
2016年05月31日
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