2016年05月31日

王道過ぎることをいかに更新したか(ズートピア批評5)

テーマの選び方によってである。


神バランスを保ちながら、
(それは内容だけでなく、
各スタッフを食わせるという、
共産主義的な考え方も含む)
この作品は、
なお、王道過ぎる話を、現代的に更新した。
テーマによってだ。

現代は不寛容の時代である。
ネットの発達で、ヘイトに溢れている。
ヘイトの中身は、おそらく殆どが偏見や凝り固まった先入観だ。

見た目だけで判断し、
本当の姿を見ない。
だから間違ったレッテルが貼られたままである。

その誤解を溶かし、本当の姿を見るには、
「自分こそ偏見にまみれている」と自覚するしかない。

ズートピアは理想の町でもなんでもなかった。
しかし、理想を皆で追求しようとする町のことだった。
(ここはユートピア思想と同じである。
市民という考え方が浸透している、
西洋的な考え方だ)

つまりは、伝統的な考えが、
現代は失われたが、
それを冒険をしたのちに回復させる、
という構造そのものは王道なのだが、
結論の反対、「不寛容の時代」が新しく、現代的に更新されていたことが、
この映画を古くさくさせなかったのである。

この一点以外は、
実にクラシカルな素晴らしい王道バランスだ。
王道も王道で、古くさいぐらい。

それを尚、現代の問題を使って更新したからこそ、
この映画は「今」に響いた。



映画とは、こういうことだ。
既に確立された、やり方がある。
古典的な、やり方がある。
それを使って、現代的に更新する。
それはつまり、古典的なやり方のマスターと、
現代批評の鋭さを、アウフヘーベンさせることである。

つまり、
デッサンをまずしっかりさせて、
次にモダンと融合させる、
西洋的な伝統的なやり方なのである。

日本の伝統にこのやり方はない。
師匠について、門前の小僧習わぬ経を読む、
という日本の伝統的なやり方は、
少なくとも映画業界では失われた。

失われたからこそ、今の邦画はダメなのかも知れないし、
違う原因でダメなのかも知れない。


少なくとも、監督と脚本をエンドクレジットの頭に出す、
その劇団の順番を、今の邦画は失っている。

全ては脚本である。
それを指揮して実現する監督である。

人気芸能人や、音楽や、ビジュアルデザインや、
ダンスや、アクションや、3Dなどの、
ガワは、そのあとに大事なことに過ぎない。

その伝統的なシステムに乗っ取り、
なおかつ現代批評をこなし、
正解を出してみたこの作品は、
十年に一本クラスの出来だと感じた。



伝統が失われ、
現代批評もままならず、
感情移入もテーマも子供並みの、
日本映画は、
100年のひらきをつけられた。
posted by おおおかとしひこ at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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