2016年06月01日

バカと天才と普通2

典型的な、バカと普通の描きわけがあった。
漫才だ。


漫才は、形式的には二人の会話劇である。
架空設定が強めなのをコント、
おしゃべり成分が強めなのを話芸、
という風に分類するように思う。

そして、漫才には必ず、
バカのボケと、
普通のツッコミがいる。

勿論このIQ差は役柄の上であり、
ボケの人が本当に頭が悪く、
ツッコミの人が賢いわけではない。
(役柄と本人は必ずしも一致しない。
それを演技という。
タレントとは演技をせず、
本人と演じるものが一致するものをいう。
キムタクとか。
演技が出来ず、本人のまんまフィクションの文脈にいるのを、
一般に学芸会という)



漫才の笑いは、
ボケが間違えたことを、
ツッコミが訂正して軌道修正するときに起きる。


同程度のIQにボケツッコミは出来ない。

バカな方がバカなことを言ったりしたり、
無茶苦茶になるから、
世間の常識を知る普通の人が、
「そんなアホな!」「なんでやねん!」
「それは○○やなくて××や!」
「もうやってられんわ!(破綻)」
と、次々に常識との差異を炙り出すことで、
私たちの感覚を異化するのである。

一人ボケの場合、
「明らかな常識」に反することを、
言ったりしたりすることで、
我々の暗黙がツッコミを入れる構造になっている。

ツッコミは天才であってはならない。
普通がいい。
「常識に戻す」ことが役割だからだ。

だからと言って、言葉のチョイスが平凡でいい、
という訳ではない。
ツッコミは、独自の天才的ツッコミであるべきだ。
何故なら並のツッコミは並だからである。
ただし、
普通のIQの人の、天才的ツッコミであるべきであり、
賢い人の、普通のツッコミであるべきではない。
「普通の人と異種の人との齟齬」が笑いだからである。


ボケは、普通はバカである。
だがバカと天才は紙一重であるように、
時に天才的悪魔的発想に至ることもある。

漫才を「バカと普通の齟齬」と考えると考えが浅くなる。
笑いは、「普通の人と異種の人との齟齬」と考えたほうが広く深くなるだろう。
天才ゆえの奇行なんてよくあることではないか。


齟齬とはなにか。

考え方の違いであり、
行動原理の違いであり、
解釈の違いであり、
習慣や無意識の違いである。

それが笑っちゃうほど違ってて、
笑っちゃうほどおかしなことに展開し、
笑っちゃうほどおかしく落ちがつくのが、
漫才の笑いというものである。


ちなみに、全ての笑いが漫才にあるわけではない。
たとえば、
「一人で生きてることは可笑しいのだと、
ある日自分で気づく」などというじんわり来る笑いは、
ボケとツッコミでは表現できない。
バカリズムの、
「エロ小説を全部野球語で置き換える」
という傑作ネタも、二人の会話劇ではなく、
一人の中の概念のひっくり返り方の面白さだ。


笑いには様々な領域がある。

漫才は、そのすべてをカバー出来る形式ではなく、
二人の齟齬を表現するのが得意な形式だ。

映画の形式も同様で、
全ての物語の形式が映画になるわけではない。
得意不得意がある。
そのうち得意なのは、
漫才なる二人芝居と同様、
二人の齟齬を表現することである。
(それを笑いに持っていかず、
話の進行や感情移入に使うのだけの話だ)


普通の人と異種の人の齟齬を描こう。
それは漫才になったり、
ドラマの一部になったりする。
同じIQの会話は、ダンドリくさくなるだろう。

また、IQというものを深く理解すると、
人は全ての分野において均等な能力があるのではなく、
まばらな分布の能力である。

つまり、同じ人でもバカなジャンルと普通のジャンルがあるわけだ。
こうやって、
話に必要なキャラクターを作っていくのである。
posted by おおおかとしひこ at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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