どんなものでも、
時間軸に並べると、意味が発生する。
1. 栄華を極めた貴族がいた。
2. しかし没落した。
という2コマのストーリーで、
これを考えてみよう。
私たちは、時間軸に並んだものを見るとき、
その因果関係を探ろうとする。
これは多分人間に備わった本能だ。
興味のあるものの、因果関係を探ろうとするのだ。
(貴族の没落に興味がない人スイマセン。
何かに置き換えて考えてね)
この2コマだけでは、没落の理由が曖昧である。
そこで、人は想像をする。
たとえばこうだ。
1. 貴族は奴隷階級がいることで成り立つ。
四民平等によって身分が解放され、
奴隷階級がいなくなったことで、
貴族は解体されたのだ。
2. 浪費して、財産が蒸発したから。
3. 1も2も物語的に面白くない。きっとこうだ。
名目上は四民平等をうたったものの、
貴族は現代にも生きている。
住友財閥とか三井財閥とか。
上級国民なる言葉も、これを揶揄しているわけだ。
ところで、彼らはどうすれば没落するのだろう。
資産運用を間違えたからか。
支配する階級、すなわち市民にカラクリがばれたからか。
たとえばパナマ文書で逃税が発覚し、
追徴課税をくらい、それが原因で没落した、
あたりがリアリティーがあるぞ。
いや、上級国民はそんなへまはしない。
別の対立する派閥に、パナマ文書流出で、
潰された、と考える方が自然だ。
4. 偶然。そういうこともある。
とりあえずとっさに4つほど考えてみた。
最初に示した2コマだけでは、このような理由は明示されていない。
私たちは、時間的に起こったことに、
理由、理屈、ロジックを求める。
なんでだろう、と問うのである。
2コマのストーリーが、この4つの理由のどれかだと、
確定したとしよう。
(加筆訂正されて、それらが明らかになったとか、
作者がツイートしたとかで)
その時、私たちは無意識に「意味を確定する」のである。
1. 人は地上において平等である。
奴隷などは人権思想にもとる考えであり、
貴族なんてその最悪の頂点だ。
人権解放は素晴らしい。
2. やっぱ浪費はいかんよね。賢い資源の使い方は大事。
3. 持てる者ほど裏切りあいだ。
人はどこでも醜い。庶民で良かった。
4. 何かが起こり、何かが終わる。それだけだ。
無為自然。もののあはれ。
ただ風が吹いていることだけが真実だ。
これは、作者の意図とは関係なく、
私たちが、
起こったことと、何故それが起こったかの理由を知り、
勝手に意味を発生させているのである。
それは我々が、時間軸で起きたことを、
脳内に格納するやり方なのかも知れない。
こういうことは、こういう理屈で起きているのである。
このようなことはこのような意味や教訓を内包しており、
似たようなことに遭遇すれば、
私たちは即座にその意味を知ることが出来る
(たとえば貴族でなくても、
私たちの家族でも似たようなことが起こる)、
などのような、
仕組みであると考えられるわけだ。
(世界を開拓し、理解していく原始人に備わった、
世界を圧縮して、伝えたり、応用する能力かも知れない)
さて。
これは、実在の貴族のことを見ても起こる。
ハプスブルグ家だろうが、ヨークシャー家だろうが、
ロスチャイルド家だろうが、綾小路家だろうが。
(今適当な名前をあげているだけである)
そして、架空の貴族を見ても起こる。
ロイエンタール一族だろうが、夜叉一族だろうが、
薔薇と牡丹一族だろうが。
つまり、実在と架空は、我々が認識しない限り、
同じものとして扱われるし、同じ認識機構が働く。
「観客はフィクションと現実の区別がつかない」なんてバカな議論は、
ここを根拠としているわけだ。
(この議論はとても乱暴で、多くの受け手はフィクションはフィクション、
と分けて考えているのだが、頭の弱い人や、
意図的なクレーマーがいるので、区別のつかない人は0にはならない)
フィクションだろうが、事実だろうが、
「ある連続した、興味あるものを見て、
そこに理屈が通っていて、
真実らしく、
そこから何らかの意味を自動的に見いだす
(作者の意図とは関係なく、私たちの脳の機能として)」
という私たちの反応は、同じなのである。
ところで、
私たちはフィクションのストーリーを作ろうとしている。
この例から言えることは、
興味のない連続は、無視。
興味のあるものは、そこに理由を見いだそうとする。
それが矛盾なく、リアリティーがあれば、人は理解する。
理解したことに、私たちは意味を見いだす、
ということだ。
それはつまり、私たちの作るストーリーが、
そういうものでなければ、「詰まらない」ということなのである。
興味、理由、実在っぽさ、意味。
それらが揃ってないものは、ストーリーとして二流以下なのである。
その二流以下のストーリーの例を見てみよう。
算数の文章題である。
たとえば。
「一周1キロの池があります。
分速10メートルで弟が出発したあと、
20分後に兄が分速15メートルで追いかけました。
何分後に追いつくでしょう」
まず、理由が分からない。
何故弟は池を周回するのか?
何故兄と弟は時間をずらしたのか?
何故弟は池の周回を行く前提なのか?
道に迷っていたとしたら、追いかけても見つかる確率は低い。
そして、何のために兄は追うのか?
殺すためか?弟、逃げて!もしくはルートを外れて!
最初に示した没落貴族の例のように、
私たちはこのように、納得の行く理由を見いだそうとする。
そして、その理由が見いだせなければ、
私たちは急速に興味を失う。
(ファイアパンチのようにね)
算数の授業が殆どの人にとって苦痛なのは、
文章題のストーリーが二流だからではないかと思う。
理由が分からない、
従って興味の見いだせない、
従って意味の分からない、
ストーリーを強制的に解かされるくせに、
回答は、
「兄はサプライズプレゼントを渡すために、
わざと弟と出発時間をずらしたのだ」
なんてどんでん返しがあるわけではなく、
数式の羅列だ。
こんなの苦痛以外でもなんでもないよね。
まだ、
「周回するLのルートがある。
分速xでpが出発したあと、
y分後に分速zでqが追いかけた。
z>xとして、これらの数量に成り立つ等式を示しなさい。
一周する前に追いつく条件は何かも示しなさい。
また、具体的な状況を創作し、
数字も具体的なものを入れて、
現実的にどういう例がこの方程式に当てはまるかを、
議論しなさい」
という問題の方が、数学の本質に迫ると言うものだ。
当然、小学生には、このように数式を扱う能力はないから、
方便として池と兄弟を使っているだけである。
でも僕は、小学生の頃から、
この文章題が大嫌いだった。
だってストーリーとして二流なんですもの。
僕がつくるとしたら、こうかな。
「血の池と呼ばれる、一周1キロの池がある。
辺りは鬱蒼とした森で、池の周囲の道しかなく、
誰も近づかない。
そのほとりにすむ兄弟がいた。しかし兄は残酷で、
いつも弟を虐待していたのである。
ある新月の夜、弟は脱走することにした。
丁度0時。弟は足が遅く、分速10メートルでしか逃げられない。
20分後、弟の気配のない兄が気づいた。
兄は分速15メートルで追いかけた。
弟をつかまえるのは、何時何分か?」
などだ。
「また、血の池を一周すれば、この閉鎖的な場所から脱出できる。
弟は、何分間兄に見つからなければ、脱出出来るか?」
という第二問も作れるよね。
このようなレースを数式で等式化すると、
血の池も兄も弟も関係なく、
数字だけで解けるということが、
数学の素晴らしさなのだ。
たとえば同じ式は、
加速器内の粒子の衝突でも、
勉強を遅れてやって追いつくための分量計算でも、
貯金のことでも使えるよね。
抽象化すること。
それを教えないと、数学を人は好きにならないと思うよ。
で。
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2016年06月08日
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