前の記事では、没落したというバッドエンドだったけど、
ハッピーエンドについて考えてみよう。
1. 貴族が没落した。
2. しかし成功した。
というストーリーにおいてだ。
ハッピーエンドということは、
その前はアンハッピーということである。
ハッピーエンドとは、
アンハッピーから、ハッピーにかけ上がることを言う。
このかけ上がりが気持ちよく、
希望を持てるから、ハッピーエンドは人気なのだ。
逆にこのかけ上がりが気持ちよくなく、
希望を持てないようでは、
形式上ハッピーエンドだとしても、詰まらない。
最近王道が詰まらないとよく言われるが、
それは形式上王道のハッピーエンドなだけで、
心に響くハッピーエンドでないからである。
その作品は、王道だから詰まらないのではなく、
ハッピーエンドの本質的なかけ上がりが詰まらないのである。
ところで、
ハッピーエンドを描く為には、
その前提がアンハッピーでなければならない。
これは論理的な帰結だ。
1. 元貴族が成功している。
2. また成功している。
はストーリーではない。
連続した二つが同じものなので、
これはただ、「成功している」という点描に過ぎない。
当たり前ではないか、と思うだろうが、
実はそうでもなかったりする。
CMの世界で、ここがいつもバカと議論になるところだ。
たとえばウマイカップラーメンのCMを考えよう。
15秒間ウマイウマイと食い続けているのは、
点描であり、ストーリーではない。
ポスターと同じ役目しか果たせないので、
動画という形式の写真と同じである。
CMはムービーなので、ストーリーを持つことができる。
つまり、
1. 腹減ったー
2. そこにカップラーメン!
というハッピーエンドを作り出すことが出来る。
さあ、私たちはそこに「理由」を探すのであった。
その理由が「ウマイからだ」となれば、
それはそのカップラーメンの広告になっている、
というのが、ストーリーCMの原理なのだ。
ところが、ここからバカとの議論。
1. のアンハッピーな状態が、不要である、
(たとえば暗いシーンである、哀しくて不快である、
弊社の広告として暗いシーンは相応しくないなど)
だから2. だけを描いてください、
という注文が、あまりにも多すぎるのである。
これは、ストーリー表現というものを、
全く分かっていない人との会話である。
面倒くさいのでイチイチ解説せず、
暗いシーンをちょこっと削って、言うことを聞いたふりをしているけど。
2.だけを描くのは、ハッピーエンドではなく、
ハッピーな写真だ。
じゃあ写真だけ見て一生過ごせや。
時は動く。人や時代は変化する。
時間停止と思考停止の牢獄のなかで死ね。
デジタルは永遠の写真のことだ。それは永遠の死である。
(昔は、永遠に時を止める写真に価値があった。
それは写真以外は全て時が流れていたからだ。
しかし今や、デジタル写真ばかりになって、
時を止めることが普通になり、時が流れるほうが疎まれるようになっている。
劣化とかそうだよね。これはまた別の問題なので、
ここでは踏み込まない)
ということで、ストーリーというものが分かってない会社の、
CMを作ることは僕はない。
ストーリーは、変化を見せる芸術である。
赤から青に変わる瞬間、赤と青の関係、
赤と青の落差、赤から青に変わる理由(因果関係)に、
ストーリーというものが存在する。
さて本題。
ハッピーエンドとは、つまり、
アンハッピーとハッピーの、落差があればあるほど面白い。
そして、
アンハッピーからハッピーへの変化の、
理由が納得いけばいくほど、面白い。
たとえば、
没落した貴族の成功が、
「貴族仲間の上級国民が、助けてくれたから」じゃ詰まらない。
「貴族には似つかわしくなく、
生まれ持った明るさと優しい心が庶民の心をつかみ、
庶民を巻き込んで会社を作り、
ごく普通の人として成功した。
元貴族の肩書きよりも、成功したのはその人の人柄と、
へこたれないその人の魅力によってである」だと、面白い。
ついでに、
「その人柄は、貴族という金持ちで育ったから形成された」では詰まらなく、
「貴族なのに平民のような心で、珍しいパターンだった」なら面白い。
上の例の、詰まらないと面白いの差は何かというと、
「他人事か、自分に置き換えられるか」という点だ。
結局金持ちに生まれて、環境とDNAが揃ってるから、成功する、
なんて話は全く他人事で興味が持てない。
ところが、
上級国民に生まれながら、庶民っぽくて、
それゆえに上級国民からは迫害され、
だが庶民としての才覚があったゆえに、
庶民として成功する、
という話なら、自分と置き換え、重ね合わせることが可能である。
これを、「親しみやすいから」などと結果から分析する言葉があるが、
これは観客の言葉であり、作り手の言葉ではない。
作り手の言葉で言えば、
「感情移入が容易だから」と分析するべきだ。
さて。
アンハッピーからハッピーエンドになる物語は、
「他人の成功」でしかない。
ホントに他人の成功なら、他人事である。
単なるやっかみや嫉妬になってしまう。
ところが、自分と置き換える可能性=感情移入が起こると、
「他人事なのに、いつの間にか自分のことになってしまう」
のである。
自分のことにいつの間にかなっているから、
アンハッピーからのハッピーのかけ上がりが、
気持ちいいのである。
女が見る恋愛もので、
主演女優が美人のものは受けないという。
美人なら愛されて当然で、詰まらないと。
絶妙な不細工が、愛嬌や知恵や工夫で、愛される様が見たいのだと。
美人の主演女優なんか、要するに他人事なのである。
逆に男が見る恋愛ものは、
不細工が主人公なものだ。
親しみやすい主人公が、私たちが自分たちに置き換えられる、
納得のいく理由で、成功への階段をかけ上がるとき、
私たちはハッピーエンドに満足するのである。
これが王道の構造だ。
単なる庶民が突然成功するのは、理屈が薄い。
成功するリアリティーがない。
成功するのは、何かしら理由がある。
それは外部環境のラッキーでも、先天的要素でもなく、
後天的に獲得できる何かであると、
私たちも「成功の可能性がある」と、
自分を重ね合わせやすい。
少年ジャンプの黄金の方程式、
「友情、努力、勝利」のうち、
「努力、勝利」の部分は、ここのことを言っている。
努力することは誰にでも出来る。
(まあ人は自堕落なものだが。
ところが自堕落な人でも努力する時がある。
強い動機を持ったときだ。つまりその強い動機に納得がいったとき、
努力する主人公に感情移入がはじまるのである)
だから、自分と置き換えやすいのだ。
詳しくは風魔の監督メモに書いたけど、
原作の、天性の才能で風林火山を扱うご都合主義を、
僕はドラマ版で、自分と置き換えやすい「努力によって」に書き換えた。
そこには強い動機があった。
絶対的なリーダー竜魔が倒れ、
闘いの責任が自分に回ってきたからである。
それまでの、「本当に人が死んでいく」というリアルとの対面が効いている。
打席が回ってきたら、人は努力せざるを得ない。
一度偶然風林火山の力を引き出したことが、
精神的支えになっている。
無意識の火事場の馬鹿力を、再現させるという具体目標があるからだ。
ドラマ風魔は、小次郎の努力の物語に、後半なるのである。
(これは車田漫画の欠点、主人公後退問題をカバーする改変であった)
だから、ジャンプの王道っぽいのである。
(その完成に親友麗羅が絡むという、「友情」もクリアしているので、
ドラマ風魔は、とてもジャンプの王道っぽいのである)
友情や努力は、先天的なものではなく、
どこにでも転がっている、後天的に獲得できるものだ。
だから自分と置き換えやすいのである。
さて。
没落した貴族の成功、という例では、
何故成功したのか、という理由が必要だ。
それが先天的な要素では詰まらなかった。
後天的な要素だと感情移入しやすいのだった。
それが、「持ち前の明るさとポジティブシンキング」だったとしよう。
そうすると、それがテーマになる。
「へこたれない明るさとポジティブシンキングは、
成功をもたらす」に。
つまり、ハッピーエンドというストーリーの構造は、
構造自体がロジックとテーマを内包している。
成功の理由がロジックになり、
それが大切である、ということがテーマになる。
逆算で、アンハッピーな状態から始めるのだから、
主人公は、テーマの欠損から始めるといい。
つまり、「没落貴族の成功」という例では、
「没落したときに、明るさやポジティブシンキングを失い、
そんなものに価値はないと信じる主人公が、
明るさやポジティブシンキングを取り戻す事件に出くわし、
少しずつ変化していくことで、
庶民の世界で成功していく」
という物語に、
自動的になるのである。
これは、ハッピーエンドという構造から、
逆算で導かれるだろう。
あなたがもし、ハッピーエンドが苦手なら、
このような構造を理解していないか、
理解していてもリアリティーあるように書けないかの、
どちらかだろう。
出来ないゆえに、「ハッピーエンドの王道なんて意味ないぜ」
と斜めから見ているふりをしている、
「酸っぱい葡萄」の体現者が、
僕はファイアパンチの作者だと思う。
何故わかるかって?
中二の時の僕とそっくりだからさ。
2016年06月09日
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