2016年06月11日

ノンフィクションに負けるフィクション

今年は濃いなあ。
ベッキー不倫、清原逮捕からはじまって、佐野る、
パナマ文書、熊本地震、未来からきた人の地震予言、
アイドル刺傷、桝添、北海道置き去り、小林姉妹の件。

これらを、フィクションは越えなければならない。


とりあえず思い出せるノンフィクションの事件を挙げたけど、
これらのことには共通点がある。

「キャラの濃さ」だ。

実は、皆が騒ぐノンフィクションは、
事件の大きさとか、
事件の展開とか、
本質的意味とか、
世界に与える解釈の変更とか、
そういう難しいことは関係なく、
「事件としてキャラが立っている」ことである。

あの清楚で明るいイメージ(しかし内に闇を抱えてそう)な、
ベッキーが、おはガールの子役から私たちの知っているベッキーが、
奥さんがいるアーティストと不倫?
しかも嫁がいるって知らなかった?
そして会見前のライン流出で、嘘つき?

など、
「キャラの濃い人が、私たちの先入観を覆すこと」
があったから、
ニュースになるのである。

私たちの作るフィクションは、
これに並べるだろうか。

同じ方法論で勝負してはならないことだけ警告しよう。

「架空の人物のキャラの濃さ」は、
「実在の人物のキャラの濃さ」に、どうしても負けるからである。

いや、濃さ成分で勝っていたとしても、
架空は実在に負けるのだ。
なんせ実在は実在してるから。
「こんな濃い人が、現実にいる」ことが面白いのだから。

「キャラが立っている人がいるが、
現実にはいない」がフィクションである。

では、フィクションの有利点はなんだろう。


僕は、「世界が整理されていること」だと考えている。


現実世界は、バラバラで理不尽で適当で、法則がない。
ベッキーの不倫なんて、まさか世界にそんな法則があるなんて、
と思わされた。
フィクションの住人のようだったベッキーが、
現実世界に降りてきたような気さえしたものだ。
逆に考えるならば、
不倫発覚前のベッキーに持たれていたイメージこそが、
フィクションの本質なのである。

不倫以前のベッキーは、
私たちが理解できる、理想的な法則性を備えていた。
打てば響く頭の回転の早さ、
笑顔を絶やさない明るさ、
アシスタントポジションでいながら、
時に主役を張る華。
子役から上がってきたサクセスストーリーも含めて、
私たちが理解できる、安心の秩序を持っていた。


フィクションとは、理想の世界が崩れる様を描く。

理想の世界が事件によって騒乱状態になり、
それを主人公が解決することによって、
元に戻る様を描く。
正確には全く元に戻ることはなく、
最初の状態Aとは異なる秩序A'になる。

その変化(AとA'の差分)が、テーマを暗示する、
というのがフィクションの構造だ。

最初の状態Aを日常世界、
事件後の騒乱状態を非日常世界(スペシャルワールド)、
最後に落ち着いた安定状態A'を、ラストシーンという。

ラストシーンはたいてい全世界A'を描かず、
ワンシーンでA'が類推出来るように描くのがしゃれている。
このしゃれ方で、作者がどのように世界を解釈しているかが出るものである。


日常世界と非日常世界との差異で、
作者がどのように世界を解釈しているかが出る。
非日常世界がどのようにして解決し、
どのようにして平衡状態を回復するかで、
作者がどのように世界を解釈しているかが出る。

たとえば宮崎駿という作家は、
田舎暮らしの経験が基礎にあり、
人々が手で働いていた、心が豊かな時代が、
日常世界の基盤にあると思う。
これは、現実に存在した世界ではなく、
現実に存在した世界から抽出して作り上げた、
理想的な世界のひとつである。

だからラピュタの街も、風の谷も、
ルパンの生きる日常も、千尋の引っ越しも、魔女の世界も、
トトロの家族たちの絆も、
実在する、
残酷な、理不尽な、どろどろな、修羅の世界
(表向きは優等生な癖に嘘つきの不倫女、
番長で凄い野球選手の癖に、チンピラで麻薬づけ、
国際政治学者として名を馳せたくせに、公金横領し、言い訳が酷い、
突然地震が襲い、城が崩れて、避難生活も酷い、などなど)
ではない、
理想的な法則のある秩序ある世界として、
描かれる。

つまり、私たちは、
フィクションの冒頭の日常世界で安心出来るはずだ。

それが事件が起こり、その日常世界からどんどん外れて行く。
この転落ぶり、
その理不尽でありながら、
解決できる可能性があること、
というちょうどよいバランスに整えられていることが、
フィクションの特徴なのである。
(現実では、
たとえば熊本地震はコツコツやるしかないし、
アイドルを刺した男はどうしようもないし、
小林姉妹は残念ながら、恋からのようなキラキラに、
戻る可能性がとても低い)


それは極端に言うのなら、
作者の考えだ。
「世界はこのように出来ているのだから、
このようにすれば解決できる」
という。


現実は理不尽で、全ての問題を解決できそうにない。
だがフィクションは、
「世界は理解でき、工夫や勇気や愛で(その作品のテーマ性によるけど)、
世界を変えることが出来る」
ということを、「フィクション世界の範囲内」で、
描くのである。


これは問題側から見れば、
解決できるように、作者によってコントロールされている、
ということである。

入試問題と同じだ。

現実に山積する問題を解くのではなく、
解き方のある、解ける問題を解くのが入試問題だ。

その入試問題は、教育機関が考える、
そこに相応しい学生を選抜するためにある。

東大ならば、記憶を網羅していて、重箱の隅をつつける人。
これは、弁護士や官僚に求められる能力だ。
京大ならば、細かい枝葉はどうでもよくて、
発想が根本的で本質的な人。
これは、哲学者や研究者に求められる能力。

その解かれ方を想定した問題が、作られているはずである。

フィクションとは、このようなものだ。
「理想の解かれ方」になるように、
問題がコントロールされているのである。

その解かれ方の傾向こそが、テーマであることは論を待たないだろう。

東大は弁護士や官僚を排出するのがテーマであり、
京大な哲学者や研究者を排出するのがテーマといってよい。


フィクションのストーリーは、
コントロールされた問題を上手に解決する様を、
楽しませるというジャンルである。

その世界はどのように出来ているかは、
作者が世界をどのように捉えているか、
ということと如実に直結しているのだ。


よく、宮崎ワールドとか、
○○ワールドとか、作者の名をとって言うことがあるよね。
それは、世界がどのような原理で動いているか、
ということを指す言葉だと僕は思う。

世界観という言葉は、もう少し表面的なこと、
たとえば支配構造、貨幣体制、主要産業、ビジュアル、言語、
独特のルール、などを指すと思う。

たとえば宮崎ワールドには、
オバハンかオッサンが歴戦の勇士である、とか、
飯はうまく、仲の良い家族でかっ食らうものである、とか、
走ったり壁走りするぐらいの活発な身体能力や行動力が、世界を救える、とか、
ヒロインは優しくて繊細で人の気持ちが分かり、
しかし弱い存在ではなく、芯がある、とか、
田舎の人間関係のうち、よそ者排除とか噂好きなどの嫌な部分をなくしている、とか、
自然との理想的共生、
などなどがあると思う。



世界は理不尽である。世界は残酷である。
それがノンフィクションだ。

それをフィクションにしたって、
実在しないぶんノンフィクションに負ける。

理不尽さや残酷さを、
現実以上に仕立てあげるのは、
ダークファンタジー、ピカレスクロマン、ノワール
(新しい順にジャンルを書いてみた)
などのようにジャンルわけされる。

しかしなんだか最近、現実の濃さが、
そういうジャンルを越えてしまっている。

阪神大震災やオウム、東北震災を経た身には、
フィクションがバカらしくなる、
という感覚だ。



私たちはフィクションの作り手として、
「世界はこのような秩序を持っている」という、
世界を提供する必要がある。

それを作者の主張という捉え方をされることもある。
それはそうだろう。
そのような世界が理想のひとつである、と私たちは思うからだ、


ご都合主義や、整合性の合っていない設定が何故嫌われるかの答えがこれだ。
ノンフィクションならあり得るこういうことは、
フィクションではあってはならない。
フィクションとは、そのようにコントロールされるべきだからだ。



あなたは、
世界は、人間社会は、どのような秩序を持っていると考えているか。
無意識的にも、意識的にも、
それはあなたの作品に出ることになるだろう。

それがノンフィクションでも、
他の人のフィクションでもない、
あなたのフィクションにしかないほど練られてくると、
○○ワールドとあなたの名前を冠して呼ばれるはずだ。


中途半端なフィクションなんて、
濃いノンフィクションに、圧倒的に負ける。

それを凌駕するフィクションとは、
世界観がどうこうなんてガワで凌駕するのではなく、
○○ワールドと呼べるくらい、
世界をこう理解すればいいのだ、
といういわば人生哲学に裏打ちされたものであるはずだ。

ということで、
生半可には、フィクションの大作なんて書けないのだよ。
今年の濃いノンフィクションに、勝ってみろよ。

私たちのライバルは、
ハリウッドでも、他の若手作家でも、
過去の金字塔的名作でもない。

現実である。
posted by おおおかとしひこ at 13:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大岡様、こんにちは。これは永久保存記事ですね!web書評のステマに振り回されては残念な気持ちを味わう日々ですが、最近の小説(映画も)は確かに、何と言ったらいいのか、表現なのか描写なのかストーリーなのか、要は現実に近くしようと努めている気配があります。でも今どきの、実在事件をソースに描いたものは大抵つまらないですね。説得性が(多少は)でるのでしょうし、読んでいる者としては、とっかかりがある方が理解し易いかもしれませんが、wiki臭い作品が本当に多くて。。。ならばノンフィクションでええやんと思います。愚痴になってしまいすみません、これからも更新楽しみにしております。(あと下ネタも)
Posted by T at 2016年06月13日 18:11
T様コメントありがとうございます。

リアリティーとか言い出してから、なんだかおかしくなってきたような。
僕は、手持ちカメラの映像が最初は好きだったけど今は好きじゃない。
リアルっぽさを追求しても詰まらない現実に近づくだけになるし。
オープンワールドがリアルを追求したらリアルワールドになって、
なんだ現実じゃん、みたいな。

フィクションにおけるリアル(本当だと皆が信じること)を深く考えたのは、「スキャンダル」(希志あいの主演)というAVを見たのがきっかけです。
ほとんどのフィクションは、このノンフィクションに勝ててない、と思ってしまった。
ここまで人の内面に迫った(下手したら心が壊れそうになる)フィクションを、しばらく見てないですね。
過去記事にも書いときましたので、お暇なときにどうぞ。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年06月13日 18:43
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