論文では当たり前のこと。
スピーチでも当たり前のこと。
まず結論をいい、論を展開させて、最後に結論に戻る。
物語では、最初にネタバレしては興醒めだから、
問いの形で冒頭にあることが多い。
「女は見た目か、中身か?」(「愛しのローズマリー」)
などである。
勿論、ここまで分かりやすい問いの形で、
結論で分かりやすい答えに帰着しなくてもいい。
物語は論文ではないからだ。
だが、ただあったことを、
そのまま垂れ流してもそれは物語ではない。
それはただの記録である。
アドリブの記録をライヴとでも呼ぶのなら、
ストーリーとはアドリブの余地のない、
計画された構造を持つ。
その顛末になんの意味があったか、
というものが結論だ。
愛しのローズマリーならば、
「女は見た目じゃなくて、中身だ」である。
問いや、問題の形でテーマが問われることが多い。
何故なら、それに答えを出すことで話が完結するからである。
冒頭に問い、ラストに答え、という形式が最も合理的というものだ。
勿論、問題や問いの形でなくともよい。
ビジュアルでテーマに関わるモチーフを暗示することもある。
(ドラマ風魔の場合、冒頭の「希望という名の風」のシーンで、
風(自在であること、暖かな風)を暗示している)
主人公の渇きを表現することで、
ラストにそれが満たされる(渇きの逆がテーマであった)、
というパターンも多い。
ビジュアルでなく、主人公のナレーションというパターンもあるよね。
小説的な、内省的な話はこういうのが多い。
(傑作「アニーホール」とか)
登場人物でない、第三者のナレーターによる場合もあるが、
冒頭でテーマを問うけど、結論を言ってしまうと興醒めだから、
暗示で終わることが多いだろう。
(子供向けではナレーターが結論を解説して終わることもある)
物語とは、
「最初こうだったやつが、
最終的にはこうなった」で記憶される。
(という仮説)
つまり、その変化でテーマを表したり、
前ふりが実現して終わったり、
係りと結びの関係になることで世界を表現したり、
している。
これは、大抵第一稿で上手く書けることは少ない。
最後まで書けてから、
もっと上手く前振れるように、リライトでつくって行くことが多い。
未熟者は一回書くので精一杯だが、
熟練者は何度もリライトして、完成度を上げるものである。
(そもそもプロットやメモを何回も書いたりすることで、
全体のクロッキーをしているわけだ)
さらに熟練者は、落ちが確定していることを知った上で、
それを前振る為の面白いエピソードを創作したりする。
(落語のマクラには、そういうものもある)
あなたの物語は、何からはじめているか。
事件に巻き込まれることからか。
舞台の紹介や主人公の日常からか。
それは性急に過ぎるかも知れない。
この物語はどういう結論になろうとしているのか、
ということに関するシーンから、
始める手を検討してみるといい。
(勿論、1分に満たない小さなシーンでよい。
そこから続けて何かが起こると連続感が出るだろう)
もっと上手なのは、
事件や日常から始めているのに、同時にテーマを暗示しているパターンだろう。
勿論、書き始める前には、結論が確定していなければ出来ないけど。
(このパラドックスのようなものが、
冒頭シーンを上手く書くことを妨げているのである。
冒頭シーンはリライト、つまり二周目以降で確定させる、
という僕の経験論は、
このパラドックスを回避する方法だ)
2016年06月15日
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